【ラグビーコラム】小林深緑郎さんのこと。(森本優子)
ラグビージャーナリストである小林深緑郎さんが9月1日、急逝した。 享年75。ファンや選手、関係者、誰からも愛されたラグビー博士だった。 ここに小林さんがラグビー界と関わるようになったいきさつをとどめておきたい。そのためにはラグマガ創刊時までさかのぼる必要がある。 日本初のラグビー専門誌であるラグビーマガジンが産声を上げたのは1972年。当時ベースボール・マガジン社に勤務していた青学大ラグビー部出身の一木良文さんが創刊した。 当時は季刊で、創刊2号から「国際ラグビーニュース」の連載が始まった。筆者は宮原萬寿(かずひさ)さん。周りからは親しみをこめて「まんじゅさん」と呼ばれた。 宮原さんは東大ラグビー部OBで卒業後は大阪の商社に勤務。国際ラグビーに造詣が深く、休みに上京しては、英国大使館やオーストラリア大使館、南ア領事館に通っていた。各国大使館に届く現地の新聞から海外の情報を仕入れて、原稿にまとめていたのだ。 宮原さんは1979年まで同連載を担当。関西協会の理事長や日本協会のレフリーソサエティ委員を務めるなど、ラグビー界に大きな貢献をされた。 創刊から15年経った1987年、一木さんが第1回W杯に出かけた際、シドニーで宮原さんから紹介されたのが小林深緑郎さんだった。 立教大を卒業して商社に勤務していた小林さんは、W杯を見に行くために会社を辞め、足が不自由になっていた宮原さんを介助しながら試合を観戦していた。2人はそのツアーで偶然出会い、親しくなったのだ。 ラグマガ2023年7月号のトライラインにも「ラグビーマガジンが募集していた観戦ツアーに参加した」と書かれている。宮原さんは「一木君、すごい子がいるんだ」と小林さんを紹介。 そこで一木さんは、小林さんからガリ版刷りの冊子を渡される。 「最初は単なるラグビー好きだと思ってたんだけど、ホテルに帰って開いてみたら、W杯に出る選手の情報が事細かに載っている。“これはただモノではない”と」 それは当時、小林さんが自費で出版していた「トライライン」だった。 私の記憶にある最初の小林さんは、W杯後、水道橋にあった会社に、宮原さんの車いすを押して現れた時だ。そこで編集部との繋がりが生まれ、1990年、村上晃一さんが編集長になったのをきっかけにラグマガで原稿を書くように。 そして1991年2月号から始まったのが、今年の9月号まで続いた「トライライン」だった。連載回数406。ラグマガ史上最長連載だ。