世界はすべて「校正」でできている―髙橋 秀実『ことばの番人』若島 正による書評
◆世界はすべて「校正」でできている 俗に、「校正恐るべし」という。いくら目を凝らして文章の校正をしても、必ずどこかに誤植や間違いはひそんでいる。 いまお読みいただいているこの文章も、わたしが最初に提出した原稿のままではない。まずゲラになった段階で、わたしが手を入れる。いわゆる著者校だ。そのうえで、校閲部の点検を受ける。そこでは、誤字脱字や用字法にはじまり、書評対象図書からの引用部分に写し間違いがないかといった照合まで念入りにチェックされる。校閲部からの赤が入らないことはめったになく、実際、この文章にも校閲部からの指摘が十二個所あった。 本書は、ノンフィクション作家である著者が、活字文化を陰で支えている校正者たちに会って直接に話を聞き、それに触発されて、漢字や日本語のあり方を考察し、さらには、広い意味での「校正」というものに思いを馳(は)せた作品だ。「文章は書くというより読まれるもの」というのが著者の基本的な姿勢で、文章は優れた読み手である校正者との「共同作品」になる。「世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないか」とまで著者は言い切る。極論のように映るかもしれないが、これに頷(うなず)かない書き手はいないだろう。声高に修正を主張することなく、代案を示した後で「トカ」「ナド」とそっと添える校正者の気配りに、どれほど書き手は助けられていることか。 本書の美点は、日本語には知らないことばかりがあることに驚く、わたしたち読者とも目線を共有した、著者の慎みである。国語辞典『言海(げんかい)』を二七〇点も持っているという校正者の話を聞いて、「二七〇ですか?」と思わず奇声をあげ、「『問』『聞』などは、『もんがまえ』じゃないんです」と言われて「そ、そうだったんですか?」と驚く著者と一緒になって、わたしたちも言葉の海を泳いでいける。 文章の一語一語よりさらに細かく、それこそ一字一字を入念にチェックする校正の仕事は、ミクロの世界のように見えるかもしれない。しかし、その校正という小さな窓から外の世界を眺めていくと、不思議なことに、世界そのものが校正でできているように見えてくる。聖書の「初めに言(ことば)があった」という一節を考えると、校正が神の存在証明だと思えてくる。言葉の使用をひたすら吟味した哲学者ウィトゲンシュタインが、「潔癖な校正者」に見えてくる。そして極め付けは(本来は「極め付き」で、「極め付け」は慣用で使われるようになったらしいが)、「人間は細胞レベルでも校正されている」という最終章のエピソードだ。遺伝物質DNAは、複製の際に、DNAポリメラーゼというたんぱく質によって誤りが訂正、つまり「校正」される。「分子の世界に文字を見たようで、私は体中が赤字まみれになったような気がしたのであった」というのが本書のユーモラスな結びなのだが、ここに赤字を入れたくなる読者はいないだろう。 校正者には不向きという、「細かなことにこだわらない」性格のわたしは、いつも校閲部のお世話になっているので、「校正」の一文字が自分の名前に付いているのが重くて仕方がない。それこそ、「正」という名前を「校正」したほうがいいのかもしれない――「糺」(タダス)、トカ? [書き手] 若島 正 1952年京都市生れ。京都大学名誉教授。『乱視読者の帰還』で本格ミステリ大賞、『乱視読者の英米短篇講義』で読売文学賞を受賞。主な訳書にナボコフ『透明な対象』、『ディフェンス』、『ナボコフ短篇全集』(共訳)、リチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』など。 [書籍情報]『ことばの番人』 著者:髙橋 秀実 / 出版社:集英社インターナショナル / 発売日:2024年09月26日 / ISBN:4797674512 毎日新聞 2024年10月12日掲載
若島 正
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