「やる気がないならやめなさい」の”うそ”──娘の習い事、山田ルイ53世の試行錯誤 #令和の親
親とは違う“言語”や生き方を手に入れる
最後に、と鳥羽先生から突き付けられたのは、「なぜ習い事をさせたいのでしょう?」とのご質問である。 筆者にとっては、「人はなぜ人を愛するのか?」に匹敵する、深淵かつ根源的な命題。強いて挙げるなら、中2の夏から不登校、そのまま6年間ひきこもったという自身の過去だろうか。最後までちゃんと通って卒業したのは小学校だけ。履歴書を埋める材料が一つもないし、「微分積分とか、習ってみたかったな……」と学びに関する後悔も否めない。 あらためて、習い事って何だろう、とため息をつく筆者に先生は、「親以外にもいろんな文脈、価値観があると知る。そうでないと、どうしても親子がベッタリになってしまう。本を読んだり、映画を見たりでもいい。他人の意見を聞き、数学とか物理の世界を味わうなかで、親とは違う言語や生き方を手に入れるのが勉強や習い事だと思います」とその意義を説く。 親の言葉は、ある意味“母国語”。家庭という狭い範囲でしか通用しない、というわけだ。 「理想を押しつけたり、小言をぶつけたりしてしまう人間らしさが親にもあっていい。自問自答しながらやっている親は、細かい失敗はあっても、大きく間違うこともない。それに大抵、子どものほうで、“授業”にしてくれるものです。親はサボっていると思ってしまうけど、子どもは子どもなりのペースで変わろうとしている。待つことも大事ですね」とまとめる鳥羽先生の言葉を胸に刻んだ。
残念ながら、「親」は、子育てのプロフェッショナルではない。 子を持った途端、徳が上がるわけでもない。皆平等に初心者スタートというのが親稼業。アルバイト1日目で店長扱いされるようなもので、至らぬ知識と技術の割に責任は最大限と激務である。 おまけに、わが子が習い事を始めると、「名伯楽たれ!」と周囲も何より自らがハードルを上げてしまう。一方、子どもは生まれ落ちたその瞬間から、泣きわめき、自由に振る舞うエキスパートだ。 はなから勝負にならないのに、「成功を授けよう!」と躍起になるのは滑稽。お膳立てしてやれるのは、せいぜい失敗……親の庇護下で安全に転べるうちにしくじる機会を与えてやる。そんなふうに考えれば、ちと肩の力も抜けるのかもしれない。 「終わったよー!」と娘が筆者の書斎に駆けこんでくる。手には、塾の問題集。その日のノルマは、算数5ページ分だと妻から聞かされていたのに、「10ページやったよ!」と得意げである。 「やる気」のありかなどわからぬが、まあ、それで十分だ。