「やる気がないならやめなさい」の”うそ”──娘の習い事、山田ルイ53世の試行錯誤 #令和の親
「勉強は楽しめたらいい」にピシャリ
筆者もその辺りは危惧しており、「あのね、別に塾やめたって、パパとママが○○ちゃん(長女のこと)を大好きなのは一緒だよ!」と時折娘の瞳をのぞき込むよう努めていたからだ。 親の歓心を買おうと、無理を重ねているとしたら不憫。 そもそも、自分の子供に、「特別なナニモノかになってほしい!」などという望みも抱いていなかった。とにかく、のびのび学んで成長していってくれればそれでいいと思っている。 我ながら物わかりのよい親じゃないかと悦に入っていると、「ただ、子どもに『好きなことをやってほしい』とか『勉強は楽しめたらいい』とか大人が言うとき、好きには嫌いが、楽しいには苦しいが混じっている、グレーな部分があるのだという当たり前のことを伝えていない。“漂白”し過ぎているのではと感じます」と鳥羽先生がピシャリ。 ……ここでハタと気がついた。 「やる気」とは、“内から湧き出る情熱”とか“生来の探求心”……そんな純粋無垢なモチベーションの有無を安易かつ日常的に問うていいものなのか。それこそ、「漂白」ではないだろうかと。辞書で引けば、「自ら進んでやること」とある。永久機関、とまで言っては大袈裟だが、あれこれ気を揉まずとも、勝手にやってくれるのなら親にとって都合がいい。
筆者の弁を受けて、「たとえば、中学入試の現場では、『うちの子がやりたいって言ったから、受験させるんです!』と、子どもが『言った』という点を強調する親御さんが珍しくない」というエピソードを先生も披露してくれた。 「あなたがやりたいんでしょ」と肩の荷を下ろし免罪符を得たい親。ただ、その親からして、みなぎる「やる気」を携え、夢や野望にあふれた日々を過ごしているかといえば眉ツバである。 筆者など、20年以上携わってきた今の生業(なりわい)でさえ、シックリとこないありさま。人付き合いに疎く、大勢のタレントが一堂に会するテレビの特番では、生きた心地がしない。スーツをビシッと着こなした、正統派漫才師への憧れも、「ワイングラス片手にシルクハットを被った貴族」と叶わずじまい。 もっと手前を語るなら、特段、芸人になりたかったわけでもない。全ては成り行き、なんとなく……その反動か、「人生、夢があって当たり前!」という風潮には違和感があった。 何しろ、講演会で訪れた小学校で、「山田先生(筆者のこと)は、子どものとき、将来の夢とかありましたか?」と尋ねる4年生の児童に、「別に無理して夢なんか持たなくてもいいんだよ!?」と返し、関係者をザワつかせた男である。 北の大地で彼方を見つめる、クラーク博士に叱られそうだが、誰もが大志を抱かねばならぬとなると、正直しんどい。 筆者の回想を、「『この子は夢がないからがんばれない』みたいなこと、平気で言う大人がいますが、夢がなくてもがんばっている子っていっぱいいる。全く問題ない」と引き取る先生。妙な物言いだが、「夢を持たなくても責められぬ社会」とは夢があるなと胸のつかえが下りた。