追悼 元横綱・曙太郎が54歳の春に逝く。外国人力士で史上初の横綱に。「花のロクサン組」若貴兄弟の壁になり激闘を繰り広げた
史上初の外国人横綱となった曙太郎さんが、4月上旬に東京都の病院で心不全で亡くなったことを、11日に日本相撲協会が発表した。54歳だった。 * * * * * * * ◆相撲道を極めていく横綱の厳しさ 史上初の外国人横綱となった曙太郎さんが、4月上旬に東京都の病院で心不全で亡くなったことを、11日に日本相撲協会が発表した。54歳だった。 私は11日にテレビのニュース番組で知ったとたんに、曙が若乃花(元横綱)と貴乃花(元横綱)の大人気兄弟力士と、ライバル意識むき出しの激闘をしたことを思い出した。3人は同期生(昭和63年3月初土俵)であり、「花のロクサン組」と言われていた。 平成5年初場所後に、曙は若貴兄弟よりも早く、第64代横綱となった。身長は203cm、体重は233kgという巨漢。ハワイ州オアフ島出身で、入門してから18場所連続で勝ち越すという強さ。平成2年秋場所に入幕。長い腕による強烈な突っ張りだけなく、四つに組んでの投げ技もあった。平成8年に日本国籍を取得している。 平成10年の長野オリンピック開会式での曙の雲龍型の土俵入りは、一点を見つめる眼光から相撲道を極めていく横綱の厳しさを感じた。世界に披露する土俵入りは神々しかった。 私は3歳くらいから大相撲をテレビで見ていて、悩みが多く、学校に行きたくない気持ちに耐えて通学していた中学生の時に、「大相撲には人生がある。土俵には人間の生きざまがあるのだ」と思い、この世界を一生見て行こうと決心した。 しかし、曙が土俵に登場すると、その相撲人生の苦闘を考えもせずに、巨漢はそれだけで得だと気楽に見ていた。「春はあけぼの!」と清少納言の『枕草子』の名文を、テレビ画面に向かって叫んでいた。
◆平成5年名古屋場所の千秋楽を、忘れることができない しかし、曙が若貴兄弟と対戦する時だけは、測ったわけではないが血圧が上がる感じがした。曙は、横綱を目指す若貴兄弟の前に岩でできた壁のように立ちはだかったのだ。 私は、若貴兄弟が好成績を上げ、横綱に昇進することを願っていた。そうすれば、私が生涯のファンと決めた父親である二子山親方(元大関・貴ノ花様=別格なので「様」をつけている)が大喜びをすると思ったからである。若貴兄弟のどちらかが優勝すれば、テレビのニュースや新聞や相撲雑誌に、師匠としての凛々しいお姿を数多く拝見できると思っていたのである。 平成5年名古屋場所の千秋楽を、私は忘れることができない。 横綱・曙と大関・貴ノ花、関脇・若ノ花(四股名の「ノ」は当時のまま)は巴戦での優勝決定戦となった。巴戦は2連勝すれば優勝なのだ。 ふだんは信仰心がゼロの私だが、八百万(やおよろず)の神々に祈りながら、貴ノ花と若ノ花のどちらかが優勝することを願った。しかし、曙は圧倒的な強さで、若ノ花を押し倒し、貴ノ花を寄り倒し、若貴の兄弟対決にはならなかった。 私は「曙をスカウトしたのは高見山(元関脇・東関親方)だ。高見山を恨む」と叫んだ。 昭和一桁生まれの母は、「高見山を育てたのは前田山(元横綱・高砂親方)だよ。恨むなら前田山だ」と、若貴兄弟のどちらかが優勝できなかった悔しさは、戦後初の横綱である前田山にまでおよんだ。