球場は旧日本軍の飛行場跡地に…79回目の「終戦の日」ドラゴンズ2軍キャンプ地・沖縄県読谷村と戦争の歴史
山内さん: 「(完成した時は)もう皆といっしょで『とってもすごいな、やったな、やっとこれで返ってくるのかな』という思いはありました」 その後、飛行場の全面返還が実現したのは2007年。長い道のりだった。
小橋川さん: 「基地というものは戦争につながる。人を殺す、文化を破壊する。逆に文化というのは人々が活動したものが開花した状態。野球も文化なんですよ。だから中日ドラゴンズがこっちにこられてずっとやっているんだけれども“野球文化”という視点から、今度は平和な社会を作るためのアプローチというのも考えていただければいいのかなと思うんですね」
■毎年のようにキャンプ地を訪れたドラゴンズのレジェンドは兄を沖縄戦で失う
ドラゴンズの歴史に名を残す往年の名投手で、2023年6月に亡くなった「フォークの神様」、杉下茂さんも沖縄に特別な思いを寄せていた。
沖縄戦の戦没者24万2225人の名前が刻まれている「平和の礎(いしじ)」に、「杉下安佑」さんという名前がある。
杉下さんはドラゴンズの沖縄キャンプを毎年のように訪れていて、90歳を超えても若い投手の指導への熱意が衰えなかったが、もうひとつ沖縄に訪れる目的があった。 8月3日、東京の、杉下茂さんの長男の茂治さん(73)の自宅を訪ねた。
杉下茂さんの長男の茂治さん: 「沖縄行っても、戦争の思い出ってあんまりいいものがなかったのかもしれない」 杉下さんに野球を教えたのは、4つ上の兄、安佑(やすすけ)さんだった。その安佑さんは1945年3月21日、“人間爆弾“と言われた特攻機=「桜花(おうか)」で沖縄の海へ。24歳という若さで、この世を去った。
茂治さん: 「(杉下さんの)兄貴(安佑さん)のほうが、野球とか何をやらせてもすごかった。だから親父(杉下さん)は『兄貴にかなわない』っていう気持ちはずっと持っていたみたい」 杉下さんは97歳で亡くなったが、自身も陸軍に召集された経験があった。
戦争は杉下さんの兄・安佑さんから野球と未来を奪った。 杉下さんは、2020年8月14日の東京新聞の朝刊で「兄は野球がうまかったから、無事でいたら私を上回る野球選手になっていただろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない」と答えていた。