球場は旧日本軍の飛行場跡地に…79回目の「終戦の日」ドラゴンズ2軍キャンプ地・沖縄県読谷村と戦争の歴史
読谷村役場の元職員 小橋川清弘さん: 「1943年の夏くらいから、日本軍が強制的に土地を接収して『戦争が終わったら土地は返すから』っていうことで、突貫でこの飛行場を作った。ところが戦争が終わったら返すという話は立ち消えになっちゃう。一生懸命自分たち『帰りたい』って言うんだけど、返してくれないんですよ」 村民たちの思いをよそに、アメリカ軍はこの飛行場で、連日のようにパラシュートで降下訓練を実施し、数々の落下事故が起きた。
そして1965年、パラシュートに吊るされた重さ2.5トンのトレーラーが落下し、小学5年生の女の子(当時11)が下敷きとなって圧死する事故が起こり、村民の怒りはピークに達した。
小橋川さん: 「出勤したらすぐ村長が『おい、きょうパラシュート降下訓練あるから、窓口の職員を残してみんな飛行場に集合!』とかって言うわけですね」 読谷村役場の元職員 山内明秀さん: 「スピーカーで音響大きくして出したりとか。(訓練反対の)でっかい凧作って空に掲げて」 そして村民の悲願、飛行場返還実現のため、村は大胆な一球を投じた。 読谷村の山内徳信村長(当時映像): 「私たちは基地を避けての村づくりは基本的に進めないという考え方です。『基地をも抱き込んで』村づくりを進めていく」
それは「野球場の建設」だった。“アメリカ軍も村民も共同で使える施設”として提案したが、もちろんアメリカ軍の許可を得なければならないため、村が考えたのは「“文化”で心を動かす」ことだった。 小橋川さん: 「読谷村の文化の粋を集めた『読谷まつり』に司令官たち呼ぶんですよ、招待するんですよ。するとみんな『よかった』『感動した』って帰るわけです。『あの祭りすごかったでしょ?あれだけの文化をもった村民が住んでいるのが読谷村なんです』と。祭りをみて感動する、心が動く、そういう心を動かすくさびというのが、実は“文化のくさび”なんです」 こうして1987年、かつて戦争のきっかけとなった飛行場のまさにその場所の一角に「平和の森」球場が誕生した。