《ブラジル記者コラム》 海外最古の短歌誌『椰子樹』400号=瀬戸際で踏みとどまる日本語文学
〝ブラジル短歌の父〟岩波菊治の生涯
『椰子樹』編集に長いこと携わり、2020年9月に104歳で亡くなった安良田済(あらたすむ)は「海外に現存する短歌誌としては世界最古」と繰り返し延べていた(3)。 日本人集会禁止だった戦時中にも関わらず、モジ郊外のコクエイラにあった、周囲に日本人ばかりが住んでいた養鶏場では、岩波や古野菊生、武本らも参加し、「秘密の歌会が年に3回ほど行われていた」という逸話も安良田から聞いた。椰子樹が再開した翌1948年からブラジル全土短歌大会も始まった。 〝ブラジル短歌の父〟岩波菊治は農業の傍ら、『椰子樹』の選者を兼ねつつ、戦前は日伯新聞の「日伯歌壇」の隆盛をもたらす中心人物として精進し、1952年に惜しくも胃潰瘍で52歳という若さで逝った。1954年、サンパウロ市誕生400周年を記念してコロニアが力をあわせて取り組んだ日本館の庭には、彼の歌碑が除幕された。今年はそこから70年だ。庭には代表歌「ふるさとの信濃の国の山河は心に泌みて永久におもわむ」と故郷・信州への望郷の想いが刻み込まれている。 《岩波は百姓が上手で、能く働いたに拘らず、どうした事か一生金には恵まれなかった。働き働いてもその暮し意の如くならず、さぞかし心身共に疲れたであろう。そのやるせない感情》がその歌には込められていると『物故先駆者列伝:日系コロニアの礎石として忘れ得ぬ人々』(日本移民五十年祭委員会、1958年)には記されている。
60~70年代が『椰子樹』の全盛期
『椰子樹』は終戦2年後の1947年5月に再刊された。1958年1月に出された同50号の「椰子樹概史」(吉本青夢)によれば、戦中の5年余りの空白を挟んで、50号に達し、その間に掲載された作品は総計1781首にもなる。延べ人員3712人、実質人員546人にもなり、当時いかに多くの歌人がいたかが伺われる。 『椰子樹』は当初年4回発行されていたが、戦後すぐに参加した安良田が編集を手掛けていた1965年から年6回になった。最盛期1960~70年代には200人以上の会員がおり、70頁もあった。清谷益次の後、安良田が椰子樹代表を務めていたが、日本移民100周年だった2008年3月から上妻博彦に代わった頃には40頁になっていた。第399号は28頁だった。 100周年当時、約150人会員中、中心は戦前の子供移民で、2割程度が戦後移民で、代表になったのは上妻が初。当時上妻によれば短歌人口は「500人に満たない」と言っていたが、現在は数十人だろうと思われる。 2009年3月25日付けニッケイ新聞によれば、2008年に創立70周年を迎えた『椰子樹』は翌2009年を機に刷新を図った。それまで10年間に渡って多田邦治が担ってきた編集は、梅崎嘉明、上妻代表、藤田朝日子の3人体制になった。年6回発行を09年、以前の4回に戻した。 2008年まで41回も行われた岩波菊治短歌賞は終了し、代わるものとして「ブラジル短歌賞」を2009年から創設するなどの新機軸も打ち出した。その後、多田に編集が戻り、現在に至る。多田が今日に至るまで長年『椰子樹』編纂に尽くしてきた時間と労力は、何物にも代えがたい貴重なものであり、何らかの表彰で報いるべきだと心底思う。