《ブラジル記者コラム》 海外最古の短歌誌『椰子樹』400号=瀬戸際で踏みとどまる日本語文学
「文学の鬼」の武本文学賞も役割を終える
海外日系人文学研究ノート「ブラジル日系人の短歌(阿尾時男、元奈良産業大学教授)」(4)は、『椰子樹』創設、『地平線』『コロニア文学』『コロニア詩文学』など数々の日系文学活動に関わった武本由夫(1911―1983年)をこう解説する。 《安良田済は、武本由夫の歌碑序幕式の挨拶で彼を称して「文学の鬼」と呼んだ。確かに、武本ほどその一生を日本語だけにかかわって生きた人物を見出すことは難しかろう。コロニアに於ける他の文芸人は、当然のこと文芸以外に生活を他の職業によって成り立たせてきた。武本は、人生の節々でこれで良いのかと自問することを繰り返しながらも、結局、文芸以外の生活を意志的に拒否することを彼自身に課したのだった。コロニアの文芸にのみ情熱を燃やして一生を送るという、誠にいさぎよい見事な生涯であった》(16頁) 東洋街の一角にある彼の歌碑には「砂丘にまろびて韜晦を楽しめば海よりそよぎて朝は流れるる」と代表歌が刻み込まれている。前述論文は「真に武本を知る人には象徴的」な代表歌の選択だとし、《文学というものを時代と風土の所産とみなし、風土にしっかりと足を下した生活者の詩歌、土着的情緒を根底とするものでなければならないと考えていた。しかし、彼は実作者としてはそれを果たせず、内心忸怩たるものを好きな酒に紛らわせていたところがあったのではないか》という心情が歌に込められていると解説をする。
彼が亡くなった1983年に「武本文学賞」が設置され、2019年3月の「第36回」をもって同賞は終了した。その賞を主催していた「ブラジル日系文学」誌はそれを機会に日本語主体からポ語に変わった。 サンパウロ市ガルボン・ブエノ街の大阪橋の袂の日本庭園入り口に立つ句碑には《幾山河ここに恋あり命あ里》(安藤魔門)という川柳が彫られていることも忘れてはならない。東洋街で心を焦がすような熱い恋をして、命を削るような辛い思いをした人には、ここは異国の地だが故郷(里)のように感じるという移民ならではの想いが込められた名句だ。 今も続く『椰子樹』『朝蔭』はもちろん、本紙『ぶらじる俳壇』(選者=小斎棹子、伊那宏)『ぶらじる歌壇』(小濃芳子)にしても、続いていること自体が〝奇跡〟だ。おそらく当地以外の日本移民社会ではとっくに移民文芸は滅びているのではないか。 ブラジルにおける移民文学は十分に役割を果たしたと確信する。『椰子樹』を編纂する多田邦治、『朝蔭』の佐藤寿和(すわ)、本紙選者3人にしても「日本語移民文学を遺そう」とする意志の強さと志の高さには本当に頭が下がる思いだ。(敬称略、深) (1)https://www.brasilnippou.com/2023/231207-24colonia-2.html (2) https://www.brasilnippou.com/2022/221222-21colonia.html (3) https://www.nikkeyshimbun.jp/2008/080918-71colonia.html (4) https://core.ac.uk/download/pdf/76207821.pdf