《ブラジル記者コラム》 海外最古の短歌誌『椰子樹』400号=瀬戸際で踏みとどまる日本語文学
100年前アリアンサに続々と入植したインテリ
渡辺論文では大正デモクラシーの流れを汲む人物名として次の例が挙げられた。高浜虚子の愛弟子である佐藤謙二郎(念腹)が1927年にアリアンサに移住。東京帝大工科を卒業した橋梁技師の木村貫一朗(圭石)も同派俳人で1926年に移住した。 俳誌『ホトトギス』を掲げて大正や戦前の昭和期に俳壇に君臨した高浜虚子は、愛弟子念腹の渡伯に際して「畑打って俳諧村を拓くべし」という餞別句を贈った。念腹は地方の俳句会を巡回して回り、多くの直弟子、孫弟子を育て上げ、1948年に虚子本人から『木陰』と命名してもらい、俳誌を開始した。 「俳諧村」どころか地球の反対側に数千人の〝俳句王国〟を築き上げた。念腹の代表句「雷や四方(よも)の樹海の子雷(こがみなり)」の句碑は聖市イビラプエラ公園日本館内にある。 短歌界では、アララギ派の島木赤彦に師事した岩波菊治が1925年にアリアンサに先発隊として入り、この3人が中心になって最初の文芸雑誌『おかぼ』を1932年に創刊した。 その後、この日系文学先駆者の多くがアリアンサ入植後に過酷な生活就労環境から数年で病気になり、療養のために聖市やその近郊に転居したことから集まる機会が増えた。その中で1937年1月にピニェイロス区にあった暁星学園に武本由夫、徳尾渓舟(けいしゅう)ら5人が集まって第1回の歌会が開催されたのがサンパウロ歌会の始まりだった。 その翌年、『椰子樹』は1938年10月に岩波菊治や木村圭石らが中心になり、当時の坂根準三総領事とリオ横浜正銀の椎木文也支店長らが経済的な後ろ盾となって、34人の同人と共にサンパウロ市で創刊した。命名は坂根総領事で、日本の短歌誌には樹木名を冠したものが多いことと、椰子の木から《ブラジル気分の横溢、亭々と聳ゆる有様が、若い人達の気持ちにも合ひはせぬかと考えたからで、年の進んだ者は進んだ者らしく、すくすくと伸びゆく雄々しい椰子樹の将来の姿を胸にハッキリ描きながら静かにしみじみと、本誌の誕生を祝福したい…》と本人が創刊号巻頭で説明している。 当時はヴァルガス独裁政権で日本移民に対する風当たりが強まる逆風の中での出発であり、日本語出版物は戦争中に全て中断。だが、終戦直後の47年にサンパウロ歌会は復活。仲眞美登利、岩波、武本、清谷益次、徳尾宅などを会場に持ち回り開催された。