《ブラジル記者コラム》 海外最古の短歌誌『椰子樹』400号=瀬戸際で踏みとどまる日本語文学
戦争中に暗号俳句で目覚めた天声人語の荒垣英雄
『椰子樹』も真珠湾攻撃の2カ月前の1941年10月にいったん休刊した。ブラジル政府は1942年1月29日に日本に国交断絶を宣言し、首都リオ近郊の日本人の一部はフローレス島にスパイ容疑で収監された。 1948年11月に創刊された『木陰』第1号23ページには、「綴字俳諧」という宮坂国人による興味深い逸話が綴られている。日米開戦の半年前、朝日新聞の特派員荒垣秀雄は、宮坂に誘われて初俳句を作りに句会に参加した。 1942年1月にブラジルが枢軸国3国と外交断絶を宣言したことから、外交官や特派員らはリオ湾内のフローレス島の外国人移民収容所を獄舎にして抑留された。外にいた宮坂らは慰問品として書籍を届けようとするが、日独伊のものは不可として頑として受け入れなかった。 タイムとかライフなどの英字雑誌なら良いとのことで、一興を案じた宮坂は暗号もどきの綴字俳句を編み出した。《雑誌の所々のページの或る行の或る字の上に一寸した赤点を打って行くのである。その赤点付きの字を次々に書いて行けばローマ字綴の句になる》というものだ。
最初に贈った句は「秋の風獄衣の袖は吹く勿れ」で、《それが判らぬやうな頭なら、日本第一の新聞社の特派員などとは申されぬぞと意気込んだものである》とし、次の句を「友の居る獄遠くみて島の秋」と送った。同特派員は2カ月余り後、交換船で帰朝した。 荒垣は1939年に朝日新聞の東京本社社会部長、開戦前にリオ支局長、戦中にマニラ総局長を歴任。終戦直後の1945年11月に論説委員となり、同紙名物コラム「天声人語」を17年半にわたって担当したことで有名だ。 荒垣はマニラ総局長時代、ブラジルで俳句仲間だった市毛孝三のことを手紙で宮坂らに伝えていた。市毛は在サンパウロ総領事として赴任した1934年、俳句研究誌『南十字星』を仲間と創刊した俳人外交官だった。日本病院建設運動にコロニアと共に邁進、実現させた。 その後、鐘紡に入社、フィリピン支局長として戦地に渡り、1945年8月、日本軍敗戦とともにジャングルに逃亡、11月に病死した。そんな市毛に関して宮坂は、《終戦近くにルソンの山中にて「天心に日ありて我に影なかり」と云う悲壮鬼神を哭かしむる名句を残して長逝せられたのは痛恨無限である》と綴る。当地に関わりのある俳人だけに心に刺さる作品ではないか。