「東海道五十三次」完成400周年―そこで知りたい東海道の歴史と「五十三次」にまつわるエピソード
天野 久樹(ニッポンドットコム)
2024年は、東海道五十三次で最後に設置された庄野宿(三重県鈴鹿市)の完成から400年目にあたる。メモリアルイヤーを記念して、東海道の歴史をひも解くとともに、「五十三次」にまつわるエピソードやトリビアを紹介する。
「幕府の軍用道路」から「庶民の道」へ
「東海道」とは元々、古代日本の広域地方行政区分(五畿七道)の1つ、本州太平洋側中部の名称だが、やがて同地帯の幹線道を指すようになり、江戸時代に入ると、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道と共に、江戸・日本橋を起点に延びる「五街道」を構成した。
1601年、徳川家康は東海道の各宿(街道筋にある交通拠点)に対し、「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」を通達する。これは、1宿に36頭の公用馬(伝馬)を常備させて、将軍名の朱印状を携帯する者に馬の使用を許すもの。前年の関ヶ原の合戦に勝った家康が全国統一を完成させるため、江戸と朝廷や豊臣氏の居城がある京都・大坂との連絡を迅速に行うのが目的だった。 公用の旅行者や物資は、無料で次の宿場まで送り継がれた。東海道には江戸から京都まで53の宿場があったため、「53次(継ぎ)」と呼ばれるようになる。
その後、参勤交代の大名行列などによる交通量の増加に伴い、本陣・脇本陣(公家や大名、幕府の高官用)、旅籠(庶民用)などの宿泊施設を整備する一方、軍事上の目的から各地に関所を設置し、河川によっては架橋を禁止するなど交通の障害が設けられた。 戦乱の世が終わると、東海道は政治・軍事の道から、多くの人々が旅する庶民の道へと変わっていく。
そのきっかけとなったのが、富士山詣(もうで)と伊勢参りだ。 富士山を神聖視する考え方は古くからあったが、江戸中期になると参拝登山者が急増し、市中には八百八講(はっぴゃくやこう)と言われる数多くの講(参拝に行くために組むグループ)が作られる。
一方、伊勢神宮への参拝も「おかげ参り」と呼ばれる集団参詣が人気となり、数百万人規模の大移動が60年周期に3回起こった。病気やけがなどで参拝に出向けない主人が、愛犬の首に道中の資金となる銭をくくりつけて送り出す、「代参犬」も世間の話題となる。