「東海道五十三次」完成400周年―そこで知りたい東海道の歴史と「五十三次」にまつわるエピソード
旅行ブームをけん引した十返舎一九と歌川広重
こうした旅好きの庶民の心をつかんだのが十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)。1802年に滑稽本『東海道中膝栗毛』の初編を刊行するや大ベストセラーに。江戸八丁堀の弥次郎兵衛と喜多八(弥次さん喜多さん)が、失敗や失態を演じながら江戸から京都まで歩く道中記。名所・名物・風俗を軽妙な筆致で描いた。 さらに、1830年代になると歌川広重が木版画『東海道五十三次』を発表。各宿場の光景を叙情豊かに描き、見る者の旅心を誘った。 憧れはあるもののなかなか旅に出られない人々の間で、手軽に旅気分を味わえる遊びとして普及したのが「道中双六(どうちゅうすごろく)」。「絵双六」の一種で、各地の情報が絵や文字で記されていた。
江戸から京都まで何日かかったのか?
江戸・日本橋から京都・三条大橋まで、当時の文献や小説を調べると、徒歩で13~17日程度かかっていたようだ。 幕末に来日したオランダ人のお抱え医師シーボルトは、3月25日に京都を出て4月10日に江戸に到着。弥次・喜多の2人は途中、伊勢参りのため四日市から東海道を離れたが、江戸から四日市まで約390キロを12日かけて歩いている。1日平均30~40キロ前後歩く計算となり、当時の庶民の健脚ぶりがうかがえる。ちなみに、歌川広重が描いた道中双六では、「泊」は11カ所になっている。 浮世絵などの風景画には、女性が1人や2人で旅する姿がよく見られる。これは当時の街道がかなり安全だったことを物語っている。
3~4日で東海道を駆け抜けた飛脚たち
庶民が歩くと2週間ほどかかる東海道をわずか3~4日で駆け抜けたのが「飛脚」。今でいえば、郵便や電話の役目を果たした人たちだ。 宿場には、人馬の継ぎ立て、旅人の宿泊に加え、通信業務という重要な任務があった。幕府は各宿に公用の継飛脚(つぎびきゃく)を置き、手紙や荷物を入れた御用箱をリレー方式で運んだ。このほか諸大名の大名飛脚や民間の町飛脚があった。 こうした飛脚制度は、明治時代に入っても続いていたが、1871年に郵便制度が官営となると、飛脚業者は結束して陸運会社を設立する。 東海道を十数キロごとに交代で走って荷物を届ける“飛脚の精神”を受け継いだのが、陸上の「駅伝」競技だ。一番人気は、正月の風物詩となっている「箱根駅伝」。1920年に始まった関東地方の大学駅伝競技会は、東京・大手町を発着点、箱根・芦ノ湖を折り返し点とし、国道1号(東海道)を舞台に各校のランナーたちが襷(たすき)をつなぐ。