「東海道五十三次」完成400周年―そこで知りたい東海道の歴史と「五十三次」にまつわるエピソード
本当は大坂までの「五十七次」だった?
一般的に「東海道五十三次」と呼ばれているが、1843年の幕府の調査記録「宿村大概帳」をはじめ、江戸時代の書物によると、街道は京都からさらに大坂まで続き、「伏見」「淀」「枚方」「守口」の4宿を加えた全57宿場となっている。 京都・三条大橋が終点だった東海道が、大坂・高麗橋まで延伸されたのは1619年。大坂城の再建に着手した2代将軍・秀忠が、豊臣秀吉が制定した京街道を組み入れ、新たに4つの宿場を設置した。 では、なぜ「五十三次」が“通説”となってしまったのか。それは、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』のイメージがそれだけ大きかったからだろう。 近年は、「五十七次」をPRする活動も各自治体などで盛んに行われている。守口市では昨年11月、静岡市の蒲原宿で開催された「蒲原宿場まつり」に瀬野憲一市長が参加。守口宿に立てられていた高札場(幕府のお触れの掲示板)を再現し、「旧徳永家住宅」を交流施設にリニューアルするなど街道文化のアピールに取り組んでいる。
第1の宿「品川宿」を歩いてみよう
日本橋から2里(約8キロ)ほど歩くと品川宿。東海道五十三次の最初の宿場だ。当時は海に面し、明け方に日本橋を発つと、ちょうどここで日の出を迎えた。 品川駅の周辺は、今や高層ビルが林立するビジネス街だが、京浜急行・北品川駅に向かって15分ほど歩くと、「これより南 品川宿」との傍示杭が立つ。大井競馬場近くの鈴ヶ森刑場跡までの約3.6キロは、道幅も往時のままで、江戸から続く東海道の面影が残る。 途中、あちこちに松が植えられていることに気づく。東海道の各宿場町から譲り受けた兄弟松で、街道の歴史を今に伝えている。
北品川本通り商店街沿いに、その名も「KAIDO books&coffee」という名のブックカフェがある。 品川生まれで、同商店街の再生事業を担当する佐藤亮太さんと、元古書店主で街道歩きをライフワークとする田中義巳さんの2人が、2015年夏に開業した。1階は喫茶スペースとなっており、2階に上がると、田中さんの蔵書をはじめ、街道や街歩き、旅関連の書籍約1万冊が所狭しと並ぶ。自治体の観光課と共同でミニイベントなども開催している。 「昔のように、北品川を全国から人や情報が集まる拠点にしたい」と佐藤さんは話す。