銀行業の先駆けだった「三井大坂両替店」。江戸時代に行われていた、借主への信用調査の実態とは
◆不品行で隠居させられた勇助 さて、この信用調査で登場する勇助とは、おそらく二代の融斎(ゆうさい)であろう。寛政6年(1794)成立の洒落本(しゃれぼん)『虚実柳巷方言(きょじつさとなまり)』(大坂の遊里での会話や言動に関する文学作品)では、融斎は、「粋株(いきかぶ)」(遊興に秀でた者)・「大尽株(だいじんかぶ)」(大金で豪遊する者)の一人に数えられ、素人芝居(非役者の素人狂言)の演技者でもあったという〈宮本又次『大阪商人』(講談社、2010年)〉。 信用調査によると、二代勇助(融斎)は不品行で家長の名前(五運)を取りあげられ、隠居の姿になっていたとある。調査当時で勇助の年齢は40歳であったから、勇助は30代の若さで隠居したわけだ。 勇助の不品行の中身は、おそらく遊興や遊芸への大散財だが、ここでは「名前も退かせ」(史料原文は「名前も相退(あいしりぞ)かせ」)とあることに注目したい。これには、江戸時代の「家」制度が大きく関係している。 この「家」とは、固有の家名、家産、家業を持ち、先祖代々への崇拝の念とその祭祀を精神的支えとして、世代を超えて永続していくことを志向する組織体だ〈大藤修『近世農民と家・村・国家――生活史・社会史の視座から』(吉川弘文館、1996年)〉。
◆江戸時代の家長 とくに家産とは、家長が子孫に継承すべく先祖より譲り受けた財産であり、当代家長は「家」の一時的な代表者として家産を管理する管財人(かんざいにん)に過ぎなかった〈中田薫『法制史論集 第一巻』(岩波書店、1926年)〉。 あくまで家産は「家」の所有物であった。しかも、当代家長は家産管理に不適格であると親族(家族、親類)会議が判断した場合、親族たちは当代家長を強制的に隠居させることができた。 跡継ぎが不在であっても養子を入れて隠居させたし、最悪の場合、「家」から追放する可能性もあった〈大藤修『近世農民と家・村・国家――生活史・社会史の視座から』(吉川弘文館、1996年)、萬代悠「畿内豪農の「家」経営と政治的役割」(『歴史学研究』第1007号、2021年)〉。これが不行跡(不品行)の家長に対する強制隠居である。 江戸時代の家長は、親族から不断の監視と牽制を受け、強制隠居を通告されないためにも、真面目かつ勤勉に働く必要があった。 この意味で、家長の言動は「家」制度から制約を受けていた。換言すれば、当代家長は、先祖から続くリレー走の一走者で、家長というバトンを未来の走者(家督継承者)に渡す役割を担っており、走者として不適切だと親族に判断されると、強制的に走者から外されたわけだ。