江戸時代にもストーカーがいた…「一途すぎる女」に片思いされた男が受けた大迷惑の記録
一方的な好意が歯止めを失いストーカー行為に至る現象は、現代に特有のことではなく、江戸時代にもあった。 【もっと読む】「気立ては良くなく品行も猥ら」と江戸の男に評された「ある地域の女」 現存する長崎奉行所の裁きの記録「犯科帳」には、一人の女の一途な片思いが、相手の男に及ぼしたとんでもない大迷惑が記されている。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』(10月17日発売)より抜粋・編集したものです。】
奉行所に「外に出るな」と命じられていた女
長崎市東隣の佐賀領古賀村(現・長崎市古賀)在住の源左衛門の娘「すえ」は、長崎に住んでいたのだろう、つねづね不行跡者であるとして、親元(古賀村)に引き取らせて外に出ないようにと奉行所から命じられていた。 しかし「すえ」は命令に従わず、元文五(1740)年四月一六日、親の目を盗んでふたたび長崎に出奔した。源左衛門は病で歩くことができなかったので、代わりに聟〈むこ〉の代七が「すえ」を探しに長崎に出かけた。 翌日には「すえ」を見つけ出し、親元に連れ帰ることにした。この際、同村の久七なる人物も商いを終えて古賀へ戻るところだったので同道した。 途中、「すえ」が気分が悪いと言ってきたので、しばらく休むことにした。代七と久七は疲れていたのか寝入ってしまった。ところがこともあろうか「すえ」が久七の脇差を盗み取り、長崎に舞い戻ってしまった。 脇差を奪われた久七は、かなり動揺したに違いない。しかし彼はそのまま村に戻った。いっぽう、代七は「すえ」を追って長崎に引き返した。翌日、清水寺門前で「すえ」を見つけた代七は、脇差を取り上げ、村に連れて帰ることにした。 この時、代七は「すえ」に、なぜたびたび親元から逃げ出して長崎に行くのか尋ねている。「すえ」は、同村の幸助の妻になりたいと答えた。この幸助が商いのため長崎に逗留しているとのことだったので、代七は彼の気持ちを確認しにふたたび長崎に赴いた。 幸助は、代七に、「すえ」の気持ちには応えられないと答えた。それでも何とかしたいと思ったところに代七の「親心」を感じるが、代七は豆腐屋の市左衛門に「すえ」と幸助の間を取り持ってくれるように頼んだ上で「すえ」を親元へ送り届けた。 これでうまく行けばよかった。しかしことは思ったようには進まなかった。