江戸時代にもストーカーがいた…「一途すぎる女」に片思いされた男が受けた大迷惑の記録
誰も予想しなかった結末
同月二八日、市左衛門方を訪れた代七と「すえ」は、どうしても幸助が承知しないと聞かされた。これを聞き、「すえ」は市左衛門の家を飛び出した。「すえ」の行き先は、幸助が宿にしていた宇兵衛のところだった。後を追った市左衛門は、夜四つ頃(22時頃)になっても幸助と「すえ」が大きい声で話をしているのを宇兵衛方で聞いたので安心して家に帰った。 だが安心したのも束の間、幸助と「すえ」が市左衛門を訪れた。後に幸助の自白により、これは宇兵衛のところで大声で話すのを遠慮したからであったことが明らかとなった。改めて「すえ」は幸助に対して夫婦になりたいと一途な思いを伝えたが、気持ちは幸助に届かず、一緒にはなれないとのことだった。 さすがに面と向かって相手からこう答えられると、「すえ」も辛さに堪えきれなかったようで、市左衛門方を飛び出した。幸助はしばらく市左衛門と話をした後、夜九つ時(24時頃)、宇兵衛のところに帰っていった。 これで一件は落着したかと思われた。だが誰もが予想できない結末となった。 翌朝六つすぎ(6時すぎ)、豊後町の木戸(門)の柵で女の縊死死体が見つかった。これが「すえ」であった。 現実を直視できず思いあまってのことだろうが、死んでからも不幸は続く。見つけたのは門番の甚兵衛と弥兵衛だったが後の面倒を嫌った甚兵衛が、同所西門番の源右衛門と申し合わせて矢来から遺体を下ろすと、こともあろうか隣町・桜町の辻番の脇に死体を捨てたのだ。 当然、死体を捨てた二人の門番は後に罰を受けたが、「すえ」の死で問題になったのは、彼女と幸助の関係であった。 ここまでの話では、幸助にとってはただただ迷惑な話にみえる。だが奉行所は、「すえ」と幸助が密通関係にあり、幸助が「すえ」に先々妻にすると内約束していたものの、何かがあってできなくなり、これを恨んで「すえ」が自死したのではないかと二人の関係を疑ったのである。「すえ」はすでに死んでいて、事実の確認のしようもない。幸助にはまさしく不運としか言えない事態である。 長崎奉行は事実確認のため、「すえ」の親、親類を再三取り調べた。最終的な判断を下す材料として奉行所が重視したのは二つの自供であった。 一つは、幸助が「すえ」を妻にするとした約束をだれも聞いていないこと。そして代七が「すえ」にどうして幸助なのかと聞いた時、ただただ幸助の妻になりたいとの思いのみを述べていたことであった。 以上から長崎奉行は、「すえ」が幸助との関係を恨んで自死したわけではないとして関係者を許した(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)三七〇~三七一頁)。 代七は「すえ」の幸助への思いを知り、どうにか成就させたいと考えた。しかしその行動が、結果的には「すえ」を追い詰めることになってしまった。「すえ」のような気持ちを落ち着かせるためには何が最善であったのか、いつの時代でも、誰にとっても難題であったに違いない。
松尾 晋一(長崎県立大学教授)