「演劇は人との摩擦の熱でつくられる」 父・井上ひさしの忘れられない言葉
故・井上ひさしさんの戯曲を上演するこまつ座は、井上さんがなくなる約半年前に三女・麻矢さんが社長に就任、現在も演劇界に一石を投じながら活動を続けている。創立33年、父・ひさしさんから受け継がれたものとは? 「昔から、演劇界はある意味では狂気の世界だと感じていて、絶対にあの中には入りたくないと思っていました」と、迷いを感じてきたという井上麻矢さんに、それでもいま、こうしてこまつ座を精力的に率いることの意味を聞いた。
距離を置きたいと思っていた、演劇の世界
「父と仕事を一緒にしたのは一年間だけでした。私は昔からお芝居の世界の人たちをみていて、狂気の世界だから入りたくない、ブラックホールみたいに吸い寄せられてはいけないと、かたい仕事ばかり選んでいたんです。それがある時、父から『ちょっと経理やってみないか』といわれまして。じゃあ経理の資格取ったらやめよう、ぐらいの気持ちでこまつ座に入ったんです」 なぜ、それほどまでに演劇界と距離を起きたかったのだろうか。 「演劇の人って無意味に熱くて、自分としては『なんかあっつい人たちー』って、遠巻きに見るみたいなところがあったんです。私が小さかった頃は、プロデューサーが首をくくる、破産する、というのが当たり前でした。それぐらい一つの作品に命をかけてつくっている人が多かったんですね。『あの人首をくくったのよ』みたいな話が食卓の会話にも普通に出てきて、作品をつくるってそういうことなんだろうなって。怖い世界だなって。だから絶対そこには行かない、って思っていたんです」
父・井上ひさしに命じられた支配人 咳き込む中、命がけで伝えた思い
新聞社やホテル勤務などを経て、こまつ座に入社したのは2009年。経理担当者として仕事する日々を送るうち、人生は思いがけない方向へ急転回する。 「ある日、父から突然支配人を命ぜられ、驚いて最初は断ろうとしました。でも、両親が離婚したことで私にはずっと葛藤があったんです。私は母のほうが心配で、ずっと父にとってはいい子ではなかった。その罪滅ぼしというか、そのときは父の役に立てることがどこか嬉しい気持ちがあって引き受けたんだと思います」 井上さんは1967年生まれ。少女時代は父の影響もあり野球が大好きで、みずからプレーもする野球少女だった。やがて文化学院高等部に入学するとフランス映画に深く興味を抱くようになり、在学中に渡仏。両親の離婚騒動が持ち上がったのも、そのころだったという。 「私が支配人になってから、父はがんだと診断を受けたのですが、父は闘病しながらがんと共存できると思っていたんです。実際は160日ちょっとでなくなってしまったのですが。抗がん剤治療を受けるなか、夜な夜な電話をかけてきて、8時間とか9時間とか、次の日の朝までずっと演劇の話をしてくるんですね。こいつに教えておかなきゃいけないみたいな焦りをすごく感じたんです」 肺がんだったこともあり、話しながら激しく咳き込むひさしさんに、たまりかねて「身体にさわるからもう切りましょう」と言ったことがあるという。 「父は怒って、『君は僕が命がけで伝えようとしていることを、なんで受け取らないんですか』と。それからは絶対に私から電話を切るまいと誓いを立てました。メモをとりながら、ときには14時間におよんだこともあります。もう、耳が真っ赤になるんです。非常に濃密な時間を、一年間ですけど過ごさせてもらったなと思っています」