【齊藤工×竹林亮】配信なし、劇場公開のみの映画『大きな家』、YouTubeでもSNSでもテレビでも触れることのできない子どもたちの「本音」に耳を傾けよ
● 被写体が映像を見てどう思うか 「内側からのアングル」が必要 ――齊藤さんは、プロデューサー的な役割を担い、撮影現場にはほとんど立ち会わず、職員の方々とのやりとりに徹されたと、伺いました。 齊藤 撮影現場に私が行くと、ノイズ的な存在になってしまうかもしれず、そこは距離を取っていました。映画の撮影となると、職員さん側にもいろいろな懸念があるはずです。懸念は関わる人の数だけあります。そのため、ていねいに説明したり、議論したりして、しっかり向き合って不安を解消していく、ということをしていました。 カメラが施設の生活に入り、さらにそれが公になることへの、恐怖や誤解みたいなものを取り除くためには、論より証拠というか、「こういうふうになる予定です」と先行例を示すことが一番わかりやすいと思い、その格好の例として『14歳の栞』を見ていただいたりもしました。 ――本映画の主人公は子どもたちですが、子どもたちをサポートする職員さんたちの、振る舞いや優しい距離感といった在り方にも感銘を受けました。本映画の職員さんたちからの反応はいかがでしたか。 竹林 実は、撮影の途中や、編集段階で、出演する子どもたちや職員の方々に見てもらい、気になるところや要望を聞いたり、議論したりしたうえで、仕上げています。「出演している本人たちがこの映画を気に入る」ということがもっとも大事なので、こうしたプロセスは絶対に必要だと考えました。 劇場販売のパンフレットのために職員の方にインタビューした際、「児童養護施設はネガティブな描き方をされることが多くて心配していたが、私たちの生活の、本当の日常を描いてくれたので、すごくうれしい」と言ってもらえました。 また、「自分は家族として子どもたちと接しているつもりだったけれど、子どもの『しょせんは親ではないし、他人』という本音を聞くことができて、ショックもありつつ、仕事に向き合うスタンスをあらためて見つめ直すことができた」とおっしゃる職員さんもいました。 ただ、「しょせんは親ではない」というのも、子どもの本音かどうかはわからないんですよ。彼らにしても、意地みたいな複雑な心情があるでしょうし。とはいえ、口に出たということは、そういう気持ちもあるだろうから、そこをうまくくみ取って接していきたい、そう職員さんは感じたのだと思います。いずれにしても職員の方々が、「本当に多くの人に見てほしい」と言ってくださったのは、うれしかったですね。 ――児童養護施設を訪れ、子どもたちと接する中で、「社会にはこうした視点が足りてないかもしれない、必要かもしれない」と思われた点はありましたでしょうか。 竹林 「話を聞いてあげられる場」でしょうか。児童養護施設の職員の方は、本当に長く時間をかけ、持続的に子どもと付き合っていらっしゃる方も多い。子どもたちが施設を出て自立した後も、「大学の課題で困っているんだよね」という話を聞いてあげたりしています。 でも、職員さんだってキャパがあるでしょうし、もっと多くの人たちが、彼らの話を聞いたり、自立をサポートしたり、友だちになったりする仕組みがあればいいなと思います。それもできるだけ輪を広げて、しかも長い付き合いができるような。 施設を出て自立しても、当然、どこかでしんどくなることはあります。いざというときに、フランクに何でも話したり、アドバイスをもらえたりするような大人や友だちがたくさんいて、気軽にコミュニケーションを取れるのであれば、しんどくなったときも、逃げ出したりふさぎ込んだりせずに、乗り越えられるかもしれない。それを大きな規模で行うには、もっともっと多くの人に関心を持ってもらい、社会的な動きにする必要があります。 もちろん、「子ども食堂」など、子どもたちをサポートする活動をされている方は世の中にたくさんいらっしゃいます。一方で、それぞれの地域でも、子どもたちが気軽にコミュニケーションできる機会が本当になくなっていて、さらに施設を出て自立となると、人との交流が難しくなってしまいます。それが根深い問題だと思います。 ――いったんつながり、その後も継続してコミュニケーションできるような仕組みづくりが、社会的に必要ということですよね。一方で、子どもたちが大人たちのそうした「おせっかい」を煩わしく思ったりするということはないのでしょうか。 竹林 もちろん、それもあるとは思います。ただ、施設の子どもたちとずっと話していて気づいたことは、彼らはやはり「大人からの壁」みたいなものをあらかじめ感じ取っている。 ――なるほど、おせっかい以前に、どこまで踏み込んでいいかわからない、または、気づかって踏み込めない、といった大人も多く、そこに子どもたちは壁を感じてしまっている。 竹林 そうなんです。大人側としても、彼らと継続して付き合っていけるかどうかわからないので、「そんなに深く関わるのはかえってよくないのでは」と遠慮してしまうのかもしれません。でも、「むしろ、おせっかいに踏み込んでほしかった」と言っている子もいました。 ですから、そこは必要以上に気を使いすぎる必要はなく、フラットに接するのが一番なのだと思います。この映画を見たことをきっかけに、少しでもそうした「壁」がなくなっていけばいいなと思います。 ――齊藤さんはいかがでしょうか。当初の「児童養護施設での日々を多くの人に知ってもらいたい」という思いに加え、今回の映画を製作したことで、あらためて感じたことはありますか。 齊藤 昔は、地域に映画館があり、子どもたち含め、いろいろな年代の人たちが交流できる場になっていたと思うんです。さらに時代をさかのぼれば、寺子屋が、そうした地域の人たちの「ハブ」としての役割を担っていた。 そのような、いろんな年代の方たちが隔てなく集まり交流できるような、物理的な場所が、やはり現代でも必要なんだと思います。 そして、僕自身がそうだったのですが、「施設の子どもたちってこうなんじゃないか」という「輪郭」を、大人があらかじめ持ちすぎているように思えます。たとえば、報道などで、施設の子の顔を写してはいけないと、子どもを「守るために」顔にモザイクをかけたりしますよね。 もちろん、プライバシーに配慮してのことではありますが、一方で、自身の顔にモザイクがかかっているのを、彼ら自身はどのように見ているでしょうか。自分の存在が、自身の個性が、あたかもないことのようにされてしまったと感じる子もいるんです。自分の存在を知ってほしい子も、自分で語りたい子も、いるんです。「施設の子どもたち」と、十把一絡(じっぱひとから)げに捉えていたのではないか、今回、そのことに気づかされました。 「モザイクをかけられてきた子どもたちは、自分でそれを見てどう思うか」。そうした視点、内側からのアングルを、私たちは持たなければならないんだと思います。それを示していくことも、この映画の役割かもしれません。 本作を見て、そうしたことに気づいた人たちが何か動き出す。そうしたきっかけになる力が、本作には宿っているのではないかと思います。実際、たとえば歌手の一青窈(ひととよう)さんが、試写会を見た後に「施設に歌いに行きたい」と言ってくれたり、ほかにも、何かできることはないかと打診してくれたりする方が大勢います。 目立つ活動や仕事をしている人だけではなく、今まで知らなかっただけで、踏み込めなかっただけで、児童養護施設につながれるのであればつながりたい、課題に取り組みたい、という声がどんどん上がってきています。声が上がり、動きが起こる。それが、この作品をつくった、何よりの収穫だと思っています。 配信やDVD化は行わないため、劇場に足を運んでいただく必要はありますが、ぜひご覧いただき、この映画の中の子どもたちのことだけではなく、ご自身の地域にある児童養護施設との関わりを考えるきっかけにしてもらえれば、こんなにうれしいことはありません。
長谷川幸光/奥田由意