板橋区とほぼ同じ面積に1万人の遺骨が残る硫黄島。温度が70度に達する手つかずの「地下壕マルイチ」から発見されたのは…
◆マルイチ内部の有人調査 注目されたマルイチ内部には果たして、どれほど多くの戦没者が眠っているのか。 実際に遺骨収集団員らが内部に入る調査は、火山活動による猛烈な地熱に阻まれた。壕内の温度は、高い所で70度に達していた。 そして危惧された事態が2016年に起きた。 内部を調査中の自衛隊員が熱風を浴びて重度のやけどを負ったのだ。 これにより有人調査は中断となった。以後の1年間は、冷風を送る装置を使って、内部の温度を下げる作業が繰り返された。 そして翌2017年、内部に収集団員が入ったところ2体が壕の底から出土した。 この成果は、滑走路下での画期的発見として首相官邸での会議で報告された。 遺骨はさらに翌2018年にも2体が発見された。
◆最後のバトン 有人調査は各年の遺骨収集団がバトンをつなぐ形で継続された。 最後のバトンを渡されたアンカー。 それこそが僕が参加した「令和元年度第二回硫黄島戦没者遺骨収集団」だったのだ。 本来であればマルイチの調査は、この収集団が派遣される前に完了しているはずだった。 しかし、飲料水の源となる雨不足のため収集団の派遣中止が続いた結果、バトンが回り回って僕らの収集団に渡ってきたのだ。 やけどの事故や雨不足による順延がなければバトンは回ってこなかった。 地の底の何かに僕は、呼ばれている。 そんな思いが、僕の胸に広がっていった。 ※本稿は、『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)の一部を再編集したものです。
酒井聡平
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