板橋区とほぼ同じ面積に1万人の遺骨が残る硫黄島。温度が70度に達する手つかずの「地下壕マルイチ」から発見されたのは…
1945年3月26日に「硫黄島の戦い」が終結してから、2024年で79年が経過しました。戦没した日本兵2万2000人のうち1万人の遺骨が見つかっておらず、現在も政府による遺骨収集ボランティアの派遣が続けられています。北海道新聞記者・酒井聡平さんは、硫黄島関係部隊の兵士の孫。過去4回硫黄島に渡り、うち3回は遺骨収集ボランティアに参加しました。今回は、酒井さんの初の著書『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』から一部引用・再編集し、硫黄島に眠る謎に迫ります。 【図】地下壕マルイチの位置と断面の概略図 * * * * * * * ◆注目の「地下壕マルイチ」 広さが東京都板橋区とほぼ同じ硫黄島。 1952年度から半世紀以上、政府による遺骨収集事業が続けられているが、なぜ2万人のうち1万人の遺骨が見つからないのか。 「滑走路の下に埋まっているからだ」 戦没者遺族の間では長年そうささやかれてきた。 自衛隊や米軍機の発着を理由に、滑走路のある地区のみ調査が手つかずだった経過が背景にある。 現在の滑走路は全長2650メートル、幅60メートル。米軍が戦闘中に、重機で一帯に土砂を盛って平地にし、コンクリートで地面を覆い、造成した。 硫黄島を含む小笠原諸島の施政権が1968年に日本に返還されてからは自衛隊が使用している。米軍も今なお訓練で利用している。
◆二つの説 滑走路下に遺骨が残存しているという見方には二つの説がある。 一つは「生き埋め説」だ。 島中央部は、死傷兵の多さから米軍が「肉ひき器(ミートグラインダー)」と呼んだ要塞群があった激戦地だった。 そのため米軍が滑走路を急ごしらえで造成した際、中に日本兵が入ったまま重機でふさがれた壕が少なくないのではないか、というのがこの説の見方だ。 もう一つは「集団埋葬説」だ。 島中央部は起伏がある地形だった。米軍はくぼんだ部分に土を盛って整地する際、多くの遺体を埋めたのではないか、という推測だ。 この二つの説の検証に向けた政府の動きは2012年に本格化した。 防衛省が高性能地中探査レーダーを開発し、地下4メートルの範囲で大腿骨に似た円柱状の固形物がないか探索を始めた。 壕の可能性のある空洞が地下10メートルまでの範囲で存在しないかも、このレーダーで探った。 結果、1798ヵ所で大腿骨に似た固形物、3ヵ所で空洞が見つかった。 固形物はその後の掘削調査で、いずれも石や金属片など人骨以外だったと判明した。 一方、3ヵ所の空洞のうち2ヵ所は探索済みの壕だった。 2ヵ所とも滑走路の端付近にあり、コンクリートで覆われなかった滑走路外の壕口から内部に入って調べたのだった。 未探索だった残る1ヵ所の壕こそが、首相官邸の会議で報告された、あの「地下壕マルイチ」だった。
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