銀行の「営業修行」で果たした「内向き」からの脱却 ハウス食品グループ本社・浦上博史社長
結局、1年間で、取引は神奈川県のドラッグストアチェーンとの1件しか取れない。でも、どの市場を狙うかの戦略性、行動を起こす前に調べておく準備力、先輩の言葉に含まれる行動力など、「内向き」から脱却するには十分なものを学んだ。 65年8月、兵庫県西宮市で生まれた。父母と妹3人の6人家族に、住み込みのお手伝いさんがいた。祖父の靖介氏は1913年、大阪市で漢方薬問屋の浦上商店を開業。やがて粉末カレーの生産も始め、ハウス食品の前身となる。父・郁夫氏は2代目の社長。「いずれ自分も会社を継ぐのかな」と思い始めたのは、小学校高学年のころだ。 父は、西宮市にいたときは多忙で、会話はほぼなかったが、東京では帰宅すると仕事のこともそれ以外のことも、気さくに話してくれた。レコードを買ってくれ、コンサートにも連れていってくれた。その間、母や妹たちは別のことをしていて「父と2人だけ」の時間だった。 一方で、父は何か決断するとき、後ろ姿にトップとしての責任感をにじませた。子ども心に「社長というのは、たいへんなのだ。自分にできるかな」と不安も抱く。そんな「父の背中」が、浦上博史さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。 慶應義塾中等部を受験して合格、慶應高校から慶大理工学部計測工学科へと進む。進路には父の助言もあった。中学生のころ「日本の大学だけでなく、アメリカでマーケティング(販売促進活動)を学んだらいい。そうしたら、英語もできるようになる。理工系の考え方は若いときにしか伸びないから、日本の大学は理工学部がいい」などと言った。英語がとても苦手だったので、実は、腰が引けた。 ■父の死で決めた覚悟苦手な英語を学び米国留学を果たす 85年8月12日、大学2年生の夏休みに、想定もしない惨事が起きる。父が夕方に羽田空港で乗った大阪府の伊丹空港への日本航空機が、群馬県御巣鷹山の山中に墜落し、父は急死した。いまも忘れられない日だ。これを機に、覚悟を決める。英語が嫌で、父が勧めた米国留学が重圧になっていたが、「もう逃げるわけにはいかない」と英語の勉強に力を入れた。 慶大を88年3月に卒業、ボストンで英語学校へ通い、大学院へ入るのに必要な英語の試験を経て、経営学修士課程へ進む。力を入れたのは父が挙げたマーケティングよりも、コストを分析して予算を抑える管理会計。のちに、ハウス食品で不採算事業を見直すときに役立った。