最近、“ポリコレ”に配慮しすぎ?「政治的な正しさ」を考える──連載:松岡宗嗣の時事コラム
マイノリティの必然性とは
「マイノリティを登場させる必然性がわからない」という観点は、例えば、同性愛者や性別を移行した女性が登場したNHKの『虎に翼』でも、「なぜ同性愛という設定にする必要があるのか」「時代背景を無視しているのでは」といった批判が起きていた。 実際には存在していたが、社会からいないことにされてきたのであって、ドラマは専門家の時代考証を踏まえた上で描かれている。登場した同性カップルのひとりの「僕らだけいつも理由が求められる」というセリフが象徴的だが、マジョリティは「なぜシスジェンダーや異性愛者という設定にしたのか」と問われることも、「過剰な配慮だ」と言われることもない。 社会を生きていると、例えば電車に乗った際、白杖を持ったひと、車椅子ユーザー、肌の色の違う人など、いろいろな人とすれ違うことがある。外見からわかりにくくても、聴覚障害のある人、性的マイノリティなどさまざまな人たちがそこには存在している。一方で、物語の電車のシーンではどうだろう。多くの場合、そうした社会の実態は反映されず、物語の方こそが偏っている状態だ。おそらく電車のシーンでマイノリティの存在が映り込むことは「ノイズ」と捉えられ、登場させることの「必然性」が問われるのではないかと思う。本来は「ノイズ」と感じ、「必然性」を考えてしまう側の認識こそが問われるべきだろう。 物語の表象に偏りが生じるのは、作る側の人々の構成に不均衡があるからという点も大きく影響している。わかりやすいところだと、日本の映画監督は圧倒的に男性が多い現状があげられる。2022年に劇場公開された日本映画の監督のうち、9割が男性だった。ジェンダーに限らず、同質的な組織によって作品が作り続けられてきたことで、マイノリティの存在がいないことにされてきたり、マジョリティにとって都合の良いイメージで描かれ、ステレオタイプが強化されるといった影響が今でも続いている。 マイノリティの存在や多様性の尊重に焦点を当てる映画やドラマは、確かに増えているだろう。そうすると「最近はポリコレ配慮ばかりだ」という声も出てくるが、実際はどうなのだろうか。 アメリカの例だが、LGBTQ+に関するメディアモニタリングを行っている団体「GLAAD」の調査によると、米国における主要のテレビドラマに登場する性的マイノリティのキャラクターは、2006~2007年でたった1.3%だった。それが約20年経ち、2023~2024年では8.6%ほどにのぼっているという。ようやく現実社会に近しい状況になりつつあると言えるだろう。 しかし、10.2%だった2019~2020年と比べるとここ数年で下がってきているという。1割程度が性的マイノリティのキャラクターだとすると、実際の人口にも近しく存在感としても可視化が進んできていると言えるだろう。しかし、それでも全体の登場人物のたった1割であることを考えると「ポリコレ配慮ばかり」という批判が妥当ではないことは明らかだ。