最近、“ポリコレ”に配慮しすぎ?「政治的な正しさ」を考える──連載:松岡宗嗣の時事コラム
ポリコレという反発が示すもの
「映像作品における表現」の観点ではどうだろう。むしろこちらの方が「ポリコレ」という言葉が持ち出される場面が多いのではないかと思う。 実写版の映画『リトルマーメイド』の主人公をアフリカ系アメリカ人の俳優が演じたことをはじめ、これまで男性や白人が中心だった主人公の配役を、女性や人種的マイノリティにすること、LGBTQ+のキャラクターが登場することも「ポリコレ配慮」だと言われることが多い。日本においても、NHKの朝ドラ『虎に翼』で、同性カップルやトランスジェンダー女性が登場したが、SNSでは同様の投稿が散見された。 言葉の言い換えも、多様性に関する表現も、それぞれに理由がある。しかし、「ポリコレ」だと揶揄される場合、多くはその背景にある社会構造の認識が共有されていないことが多い。 「ポリコレだ」と言われるとき、そこでは具体的にどんな反発が起きているのだろうか。 「自分とは関係のないマイノリティに過剰に気を使っていて、自分がおろそかにされているように感じて嫌だ」というものや、「正しさを押し付けられているようで、これまで楽しんできたものを否定されているように感じて不快だ」というものもあるだろう。他には「マイノリティを登場させる必然性がわからず、物語のノイズのように感じる」といったような声もしばしば耳にする。 「自分とは関係ない」という点は、前述の「看護師」という言い換えには批判が起きないように、身近さを実感できているかがポイントになるのだろう。この点については、性的マイノリティは、実際には1割程度存在しているにもかかわらず、社会の差別や偏見によって多くが周囲にカミングアウトできないため、いないことにされているという社会の現状を押さえる必要がある。 「自分がおろそかにされているように感じる」「これまで楽しんできたものが否定されてきたように感じる」という点は、社会のメインストリームで語られる言葉や作られる作品が、マジョリティの人々を前提としたものばかりであることに目を向けてほしいと思う。 マイノリティにとっては、自分の存在を投影できる作品が少ない。むしろステレオタイプに描かれることで偏見が再生産され、いじめやハラスメントにつながるなど実生活でも悪影響を受けてきた。そうした少数派の人々が脚光を浴びた際、マジョリティ側が「自分のための物語ではない」と、自分が優先されていないことに思わず反発してしまうことに対しては、これまで意識せずとも自分の存在を作品に投影でき、恩恵を受けていたことを振り返ってみてほしいと思う。 前述の映画『リトルマーメイド』の予告編が公開された際、アフリカ系アメリカ人の子どもたちが「私みたい!」と喜びに満ちている動画がいくつも拡散されていた。これまで想像もできなかった、自分と同じ肌の色の人がプリンセスとして登場する瞬間を目撃した際の表情に、物語におけるリプレゼンテーションの意義を痛感した。