「授業やテスト中は水筒を利用しないことをマナーとする」との文書が配布、埼玉県の市立中学校に批判が殺到。生徒を束縛するブラック校則に募るモヤモヤの正体とは?
そもそも校則で縛れば縛るほど、かえって反発したくなるのが、生徒というものではないだろうか。早世した某ミュージシャンが「支配からの卒業」を叫んでから、まもなく40年がたつ。ではなぜ、最近になって、立て続けに問題視されるようになったのか。 「その背景には、時代の変化がある」と言うと、そんなの誰しも気づいていると感じるはずなので、いくつか具体的に挙げてみよう。 ■「教育」ですべてが許される時代は終わった
まずは、なんでも「教育」と言えば許される時代ではなくなった点だ。これは学校のみならず、家庭でのしつけも同様だが、「あなたの将来を思って、わざと厳しくしているのだ」的な主張が、なかなか受け入れられなくなった。 その要因として、人権や意思が重んじられる時代になったことが考えられる。個人を尊重する価値観が普及するにつれて、権利の強制剥奪と捉えられかねないような指導は、敬遠されるようになってきた。 たとえば「下着の色」を校則で定め、場合によっては教職員によるチェックを行うといった指導は、セクシャルハラスメントの文脈において言語道断だとの意見が、いまや多数派だ。また、運動中に「水を飲むな」といった教育方針も、生存権に関わると、現在ではほとんど支持されていない。
内外からの指摘を受けて、改善に動くのであれば、まだ「時代錯誤だったね」で終わるので、炎上にはつながりにくい。ただ、そこで「アップデートを拒んでいるように思える態度」が表れてしまうと、バッシングの嵐となる。 人権意識の変化は、子どもの話に限らない。教職員についても、これまで「聖職だから」との建前のもとで、過重労働が前提となっていたが、ここ数年ようやく「働き方改革」の一環で、負担軽減を求める声がでてきた。
そこへ来てのコロナ禍だ。コロナ禍以前から進められていた「GIGAスクール構想」が前倒しされる形で、全国の学校にタブレットなど教育用端末の導入が進められた。家庭内から参加するオンライン授業も珍しくなくなった結果、「校舎内での風紀」を前提とした従来の校則は、存在意義が揺らぎつつある。 もっとも感染拡大が収束したことで、「リアル登校」への回帰は珍しくない。しかし自粛を余儀なくされた3年間は、中学でも高校でも、すっぽり学校生活があてはまってしまうほどの期間だ。「新しい生活様式」は、すでに死語になりつつあるが、少なくとも当時は「この変化は一時的な措置ではなく、生涯続くかもしれない」と、先が見えない不安の中で、覚悟していた人も多かっただろう。覚悟を決めてまで変えた習慣なのに、すぐさま「はい、じゃあ元に戻してください」と言われても……と、私であれば困惑する。