大友宗麟の「戦国大名的・国際ビジネス交渉術」…倭寇の取り締まりを求める中国からの使いに宗麟はどう対応したのか
豊後のキリシタン大名・大友宗麟。 テレビ番組『歴史探偵』(NHK総合)「戦国ご当地大名シリーズ 大友宗麟」に出演した鹿毛敏夫さんの著書『世界史の中の戦国大名』では、大友宗麟のヨーロッパにおける顔だけでなく、(参照記事『「大友宗麟」が、信長や秀吉、家康を差し置いて、同時代のヨーロッパで「最大の大名」と見なされていたのはなぜなのか? 』、『「大友宗麟」の書状を「偽造」してまでローマ教皇に送らなくてはならなかった「イエズス会の思惑」とは何だったのか』)、中国との関係における顔についても書かれています。 【画像】日本では知られていない!ルーベンスの弟子が描いた大友宗麟 大友宗麟が生きた16世紀、日本と明の間で始まった勘合貿易には有力大名も参画し、その覇権を巡って大内・細川両大名が軍事衝突(「寧波の乱」)、大内氏が遣明船の派遣を独占するに至ったものの、家臣の謀反騒動が起きて以降、遣明使節の記録は途絶えました。 しかし、西日本の地域大名たちは、明に船を送り続け、中国人海商との貿易活動を始めようとしていました。 その一人である大友宗麟の国際ビジネスの交渉術はどのようなものだったのでしょうか。 【*本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』から抜粋・編集したものです。】
倭寇の取り締まりを求める中国
日本の地域大名の貿易活動は、海禁のたてまえをとる中国側から見れば、まぎれもない密貿易行為であり、その活動は倭寇的行為そのものと見なされた。 嘉靖35(弘治2・1556)年、新たに浙直総督となった胡宗憲は、倭寇的活動の取り締まりを日本側に要求するため、蒋洲と可願を日本に派遣した。 蒋洲と陳可願は、日本の五島(長崎県)でまず王直らに会った。そして陳可願は王直との会見の報告のため先に明に帰り、一方、蒋洲は豊後に滞在し、使者を山口に派遣して倭寇の取り締まりを要求した。 これを受けて山口の戦国大名大内義長は倭寇被虜の中国人を本国に送還するとともに、日本国王の印を用いて朝貢した。 一方、豊後の大友義鎮(宗麟)も、蒋洲を本国まで護送するとともに、使僧徳陽に貢物を献上させ、上表文で倭寇の罪を謝し、さらに新規の勘合頒布を願って朝貢した。 蒋洲が対馬の宗氏に宛てた嘉靖35(弘治2・1556)年11月3日付咨文(しぶん)(東京大学史料編纂所蔵)には、 「近年以来、日本各島の小民、仮るに買売をもって名となし、しばしば中国の辺境を犯し、居民を劫掠す」 と、日本人が商取引を名目に中国海辺に侵入し、民衆を脅かしていることを伝え、 「旧年十一月十一日より来たりて五島に至り、松浦・博多に由り、已(すで)に豊後大友氏に往きて会議し、即ち遍く禁制を各島の賊徒に行うを蒙る、回文を備有し、船を撥し徳陽首座(しゅそ)らを遣わし、表を進めて物を貢す」 と、自らが五島から松浦、博多を経て豊後に来たこと、豊後では大友氏と会合して倭寇禁制を蒙り、各地の海賊衆への回文も得たこと、そして徳陽が上表文と貢物を携えて豊後から明へ発つことを連絡している。 【つづきの「「大友宗麟」は日本国に並ぶ「BVNGO国」の国王だと錯覚した海外諸国の「勘違い外交劇」では、大友宗麟を九州全体の王だと勘違いした海外諸国の動きについてお届けします。】 * 海に出たらやりたい放題!? 「王」を名乗って勝手に外交? ? 鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』では、日本史だけではわからない戦国大名たちの野心あふれる海外進出が解明されています!
鹿毛 敏夫(名古屋学院大学国際文化学部教授)