海上自衛隊の護衛艦「かが」がついに空母化に成功…日本の自衛艦の「止まらぬ進化」に中国が抱く「大きな恐れ」
カンボジア派遣に使われた自衛隊の輸送艦
日本にそんな小さい輸送艦しかなかった1992年、現在から信じられんやろうが、世の自衛隊に対する関心、理解が低かった……どころか日本の大手メディアがこぞって反日、反米、左に傾きまくっていたころである。国連のPKO(平和維持活動)に参加するため自衛隊に白羽の矢が立てられ、カンボシアに派遣されることになった。 その前年に勃発した第1次湾岸戦争では同盟国が次々戦闘に参加するなか、日本は自衛隊の派遣を要請されときながら、金だけ出して1人も将兵派遣せんかったのである。その額90億ドルという参戦国で最高額でありながら、日本は国際社会から嘲笑と顰蹙を浴び、大恥かいていたからである。 で、実質日本政府の尻ぬぐいでありながら人道支援を名目に派遣が決まってからも、まあ、国会での牛歩やらいろいろ妨害、破壊工作があった。とにかく戦後初めての自衛隊の実動部隊の海外派遣である。そりゃあ国会の野党のセンセイ方も大反対、日本政府はそれでも自衛隊を海外派遣でける法律まで成立させ、なんとか陸上自衛隊施設大隊約600人の部隊を派遣することとなった。 その現地カンボジアで使用する車両や人員を海上自衛隊呉基地からカンボジア、コンポンソム(現シアヌークビル港)まで運んだのが海上輸送部隊、輸送艦「みうら」「おじか」そして補給艦「とわだ」やった。
熾烈を極めた19日間の航海
その19日間に及ぶ無寄港の航海は熾烈を極めた。途中太古から「船の墓場」と恐れられたバシー海峡ではよりよって台風に遭遇、部隊は無寄港の命令下、丸々1週間大荒れのバシー海峡を木の葉のごとく漂流状態。 もう沈没するんちゃうかいなというくらいの上や下に、右や左に揺れに揺れ、不肖・宮嶋も経験したことのないすさまじい船酔いに悩まされ、一生分のゲロを吐きまくり、その過酷さは不肖・宮嶋がそれ以降2度と船酔いに悩まされることがなかったほどである。(詳細は「不肖・宮嶋 ああ、堂々の自衛隊」祥伝社刊に) 新聞各社の記者はそれを知っていたかのように、同乗をドタキャンし、その歴史的過酷な航海を記録した日本人は不肖・宮嶋ただ一人やったのである。そしてその原稿は「ゲロ戦記」と銘打たれ、週刊文春グラビアページや後に「ああ、堂々の自衛隊」のタイトルで単行本化までされ、またこれが評判を呼び、日本国民の自衛隊に対する理解や関心を大きく高めるきっかけともなった。さらにや。当時そんな大事な任務に使用されたのが当時ですらすでに老朽艦、艦齢17年のうえ、平底で鈍足、さらに揺れの激しい、そのくせ小さく輸送量も大したことのない「みうら」型輸送艦やったのである。当時、日本にはそんな輸送艦しかなかった。