刑事責任の根拠は「自由意思」なのに、実は「自由意思」は虚構かもしれない?…「犯罪の責任」について考える
刑法の基礎にある自由意思の問題
前記のとおり、刑法は、人が「自由意思」によって犯した罪を犯罪とするのであり、責任無能力者の行為は罰せられない。刑事未成年者(十四歳未満の者)の行為も同様である(刑法三九条一項、四一条)。これが、近代刑法の基本原理の一つ、責任主義だ。いいかえれば、自由意思が刑事責任の根拠なのである。 しかし、脳神経科学の研究が明らかにしてきたところによれば、この「自由意思」は、かなりの程度に虚構である可能性が高い。1983年に行われた有名な「ベンジャミン・リベットの実験」は、人間がある行為を行おう(たとえば、指を動かそう)と決意する約0.35秒前に脳波にはそれに対応した電位変化がすでに現れていることを示した。この実験結果によれば、私たちが特定の行為を行おうと意識する約0.35秒前に、脳はすでにその決定を行っていることになる。 この現象については、たとえば、進化によって形成された脳の仕組みが、「意思」という主観的感覚をあえて遅延させ、脳における指令の「発生」と同時ではなく、指令の「実行」と同調させるように働いているためではないか、との説明がなされている。 さらに、人間の行動を決定しているのは、「脳」そのものであり、それより後れてやってくる「自由意思」によって自己決定がなされているという人間の感じ方(自分は他からの束縛や支配を受けずにみずからの責任において自己決定しているという私たちの感じ方)は、進化の過程で作られた「虚構」であるとの解釈も存在する。 リベットの実験自体はこうした実験としては初歩的なものであり、上のようなその解釈についても、初見では奇妙な考え方と感じられるかもしれない。しかし、私たちが日常の小さな行動を決定して行う(たとえば、椅子から立ち上がる、テレビをつける、メニューから料理を選ぶ)際のみずからの状態を、外側から正確に観察してみていただきたい。もしかしたら、「自分が自由意思によってそれらの行動を決めている」というよりも「脳が決めた行動に適宜意識が随伴している」というほうが正しいのではないだろうか。少なくとも、そうした疑念は感じられるのではないだろうか。 こうした認識を背景に、神経科学者デイヴィッド・イーグルマンの『意識は傍観者である―脳の知られざる営み』〔大田直子訳。早川書房〕は、(1)人間の行動の多くは意識のアクセスできないレヴェルで決定されており、意識はせいぜい調整者的な役割しか果たしていない、(2)脳のあらゆる部分はほかの部分とつながったネットワークであり「すべてに先立つ自由意思」は幻想にすぎない、(3)人間の行動に影響を及ぼす遺伝的・環境的要因、あるいは個々の脳の物理的特性は、個人の力では左右できない、といった前提に基づき、自由意思と責任主義に基づく現在の刑事法学と裁判のシステムを批判する。つまり、「自由意思が幻想である以上、責任主義もその根拠を失う」というわけだ。彼は、こうした考え方に基づく学際的研究を提唱し、また、刑罰の制度は報復ではなく犯罪者の更生に重点を置くべきだという。 また、哲学においても、古くから、決定論と自由をめぐる論争がある。これには、哲学上の難問(アポリア)の多くにありがちな「議論のための議論」という側面がなきにしもあらずで、実にさまざまな見解がある。しかし、少なくとも、「人間の自由と責任の根拠は普通に考えられているほど堅固なものではない」ということは、それらの共通の前提となっている。そして、こうした議論からも、犯罪に対する対処の方法(刑罰や各種の更生プログラム)については従来の既成概念にとらわれずに柔軟に取り組んでゆくべきだという主張は出てきている(高崎将平『そうしないことはありえたか?──自由論入門』〔青土社〕は自由論について整理した書物の一例。もっとも、読むには多少の哲学的素養が必要)。 控えめにいっても、刑事法学や刑事司法は、意識、自由意思に関する自然科学の探究の成果に相当の注意と関心を払い、犯罪と刑罰に関する古典的な考え方を適宜修正してゆくことが必要なのではないだろうか。 * さらに【つづき】〈多くの人が気付いていない、「犯罪者」と「私たち」を隔てる壁は「意外と薄い」という事実…紙一重の違いで、自分が刑務所に入っていた可能性も!?〉では、応報的司法と修復的司法について、詳しくみていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)