何を書かれても揺るがなくなった――紗栄子、「偽善」「売名」無責任な声にもぶれない理由
当初は紗栄子が電話応対をしていたが、特徴的な声質のため、本人だとバレてしまう。途中から大学生の兄の友達にもアルバイトで手伝ってもらい、彼らとともに梱包、検品、発送もした。 「芸能や広告案件のお仕事だけだと、タレントとして表には出ますけど、当然物流の動きはわからないし、知らせてもらえない。でも、自分が制作に関わったことで、全体の流れが見えたし、すごく楽しかった。私の得意分野なんだなと思いました」 ビジネスの才覚は、幼少期に養われていた。化粧品やアパレルの店を経営する父や従業員と接し、もの作りのプロセスを自然と吸収していた。 「共働きで家に帰っても誰もいないので、小学校が終わると父の会社に行っていました。商談中、父は『どっちがいいと思う?』と意見を求めてくれる。自分なりに一生懸命考えて、答えを出す。結果的に、私の選択したほうに決まればうれしいし、自信にもつながる。あの経験はすごく大きかったですね。当時、父はオーダーメイドの洋服屋さんを手掛けていたので、2階の部屋で縫い子さんと一緒に縫い物をすることもあった。大量生産が主流になると閉店しました。時代の流れとともに、事業の形が変わっていく様子も見てきました」
一人で子どもを育て上げたい
芸能活動、アパレル販売の二足のわらじを履き、順調な活動を続けていた2007年、20歳でスポーツ選手と電撃結婚。翌年には長男、その2年後には次男を授かったが、婚姻関係には4年強でピリオドを打った。 「25歳の時に離婚することになって、金銭的にも精神的にも自分一人で子どもを育て上げたいと思いました。女優業は拘束時間が長いので、出産後はあきらめざるを得なかった。子育てと両立できる雑誌のモデル活動を中心に、自分のプロデュースする洋服なども販売していきました。芸能の仕事って、応援してもらって初めて成立する。私を支持してくださる方がいたから、生きてこられた。本当に感謝しています」
支援の動機は「いま飛び込まないと、一生後悔する」
事業を成功させる傍らで、支援活動も続けてきた。2010年4月、宮崎で家畜伝染病の口蹄疫が発生し、畜産農家は大ダメージを受けた。地元の窮状を見兼ねた紗栄子は新聞社に直接出向き、義援金を手渡した。2016年4月の熊本地震では寄付に加え、継続的に炊き出しを行い、養護施設も訪ねた。一昨年には台風15号の被害に遭った千葉への支援をインスタグラムなどで呼び掛け、2日で4トントラック15台分の物資が集まった。紗栄子の行動には賛同者が年々増え、確実に支援の輪が広がっている。 「最初は物資を届ける際、自治体や企業とのやり取りも全部一人でやっていました。お客様窓口に電話をかけて、そこからつないでもらっていましたね(笑)。ただ、個人だと受け入れてくれない自治体もあったので、一般社団法人Think The DAYを設立しました。最近は、有事に備えて防災セットも作ったんですよ。支援活動は、皆さんにつけていただいた自信や影響力に対する私なりの恩返しなんです。」