「私は生きたい」 ウクライナで末期がんと闘う少女の最期の日々をピュリツァ―賞写真家が追う
「私は生きたい」
ソーニャはミスト・ドブラで、姉ヴァレリアの助けを借りながら、見えないなかで生活する術を学んだ。バラが咲くレンガの歩道をためらうことなく歩けるようになり、自転車やブランコに乗ったり、絵を描いたり、庭で遊んだりできるようになった。太陽の光を浴びるのが大好きで、雨上がりには「虹だ、虹だ!」と叫んだ。 ソーニャは、孤児のために美術教室を開いていたオルハ・イヴァスュークとも交流を深めた。オルハからデジタルカメラをもらったソーニャは写真を撮るようになり、将来は写真家になりたいと宣言した。 「彼女は何でも自分でやるのが好きでした。食事もお風呂もひとりで済ませ、誰にも頼らずに着替えをして、絵も描きました。自立心旺盛な子でした」とオルハは言う。 2024年3月のある朝、目覚めたソーニャが「ママ、頭にこぶがある」と言う。ナタリアは娘の頭部に、ウズラの卵ほどのしこりを見つけた。 ソーニャはただちにオーマトディト小児病院で、新たに見つかった腫瘍を切除する手術を受けた。1ヵ月後、さらに新しい腫瘍が2つ見つかり、後頭部の骨が変質していることがわかった。予後は思わしくなかった。担当医はソーニャの余命を週や月ではなく、日数で宣告した。 キーウの小児病院を出るとき、ソーニャは母親の不安を察したように言った。 「ママ、私は生きたい」 ナタリアは、どう返答すべきかわからなかった。 病院からこれ以上、化学療法を継続してもおそらく効果は見込めないと言われたナタリアは、その言葉に従った。化学療法による吐き気や倦怠感、衰弱をソーニャにこれ以上、味わわせたくなかった。残された日々を人生で最高の時間にしてやりたかった。 5月、ナタリアとミスト・ドブラ設立者のマルタは、ソーニャの6歳の誕生パーティーを開いた。7月7日の誕生日には少し早かったが、彼女がそれまで生きられるかわからなかったからだ。
「生きる力」が失われていく
ナタリアはその夏中、私と取材に同行しているウクライナ人通訳のリューボフ・ショルコに病気と闘う娘への取材を許してくれた。「戦争がウクライナの子供たちにどう影響しているか、世界中の人に知ってほしい」と彼女は言う。 ソーニャはカリスマ性を持ったいたずら好きな少女で、私たちと遊びたがった。ときおり私のカメラで写真撮影をした。そしてよくリューボフに抱きついた。 ソーニャの耳の背後にある腫瘍が、くっきりと目立つようになった。肩や腰や首、口のなかにも腫瘍ができ、彼女はやせ細った小さな体に走る激痛に耐えなければならなかった。ミスト・ドブラの敷地内を散歩をする頻度も、減っていった。ほどなくしてソーニャは、病棟区画へ移される。 ミスト・ドブラの主任医師デニス・コリューバキン(47)は、苦痛を最小限に抑えつつ、ソーニャの目の光が完全に消えないよう、懸命に治療を施した。だが7月下旬になると、低用量のフェンタニル、増量されたモルヒネやアセトアミノフェン、数種の筋肉弛緩剤と抗不安薬の投与によって、こちらが元気づけられるほど力強かったソーニャの生きる力は失われていった。 輸血処置を受けた2週間のあいだ、ソーニャの血中ヘモグロビン濃度は下がり続けた。8月5日、深い鎮静状態にあったソーニャは、母親の顔を見上げてこう言った。 「ママ、お空の天使たちのところへ飛行機を飛ばしてくれる?」 「どうして?」とナタリアが問う。 「ほかの天使たちが、地上に降りてこられるように」 8月20日の夜、ソーニャはいつものように胸に鎮痛剤を注射しようとしたが、もはや彼女にはシリンジの内容物をすべて押し出す力さえ残っていなかった。数時間後、ソーニャは息を引き取った。