「私は生きたい」 ウクライナで末期がんと闘う少女の最期の日々をピュリツァ―賞写真家が追う
小児がんを患うウクライナ人のソーニャは、ロシアの軍事侵攻によって治療の中断を余儀なくされる。病魔に侵されながらも明るさを忘れない幼い少女の姿は、長引く戦争に疲弊する家族や周囲の人々を元気づけるが、やがてがんは彼女の生きる力を奪っていく。ピュリツァー賞受賞写真家が、戦争に運命を翻弄された少女とその家族を追った渾身のルポルタージュ。 【画像】「私は生きたい」 ウクライナで末期がんと闘う少女の最期の日々をピュリツァ―賞写真家が追う ピンクのユニコーンのぬいぐるみに囲まれ、ピンクのタンクトップを着たソーニャ・リアク(6)は、ピンクのベッドカバーの上に寝そべり、胸に埋め込まれた中心静脈カテーテルのカバーを開けた。 そばにいる看護師が持つトレイから、モルヒネが満たされた注射器をそこに器用に刺し入れ、頚静脈に注入する。 薬剤の注射は、ソーニャが自分でできる数少ないことのひとつだ。希少がんの一種に侵されている彼女の人生は、ロシアとの戦争により大きく変わった。父親は前線で戦死し、彼女自身も健康を害している。戦争で化学療法が滞ったため、視力も体力も失った。 目立たなかった腫瘍が明らかに大きくなっていくなか、ソーニャはカテーテルへの薬剤注入をどうしても自分の手でやりたいと言う。障がいや持病のあるウクライナの子供の保健衛生状況は、絶望的だ。戦争が、戦闘の最前線から遠く離れた場所へも魔の手を伸ばしてくることを、嫌でも思い知らされる。 そうした子供たちは誤診や治療の遅延に翻弄され、必要な医薬品にアクセスできず、強制退去や間断なく続く戦争のストレスに苛まれる。停電が頻繁に起きるせいで、呼吸器など電力を必要とする医療機器がないと生きられない患者もまた危険にさらされている。 こうした困難な状況下で、病気や障がいのある子供の家族は慈善団体などの力を借りながら、愛する家族を助ける方法を模索している。
夫の不倫、娘のがん発覚
ソーニャが網膜芽細胞腫と診断されたのは、2020年10月のことだった。これは網膜にできる希少ながんで、乳幼児に多い。彼女は当時まだ2歳で、中央ウクライナのキロボフラードで暮らしていた。 米国がん協会(ACS)によると、網膜芽細胞腫の子供は眼球からがん細胞が転移する前に治療を受けることができれば、10人中9人以上が治癒するという。がんが見つかった後、ソーニャはただちにウクライナ南部の港湾都市オデーサで外科手術を受けた。彼女は左目を失った。 家族はその頃、別の困難にも直面していた。その数ヵ月前、父親が度重なる不倫の末に家を出たのだ。ソーニャの母親ナタリア・クリヴォラプチュクは、わずかなお金しか持っていなかった。歩きはじめたばかりでがんをわずらったソーニャと彼女の3歳の姉ヴァレリア、まだ乳飲み子の弟の世話をするナタリアは家を退去するよう迫られていた。 それから1年4ヵ月の間、ソーニャは10以上の化学療法と、25回の放射線治療を受けた。当初はオデーサで治療を受けていたが、ミスト・ドブラ(善なる都市)と呼ばれる保護シェルターの存在を知ったナタリアは、ソーニャが治療を無償で受けるための支援申請をした。 2021年6月、ナタリア一家はミスト・ドブラに移り、首都キーウのオーマトディト小児病院で治療を継続することにした。同病院はウクライナで最も有名な小児がんセンターだ。