「私の取材が差別を生むのか」偏見の先に見えたデカセギ外国人2世の生き方
日本人と同じ土俵で闘う
現在、宮城さんは就職活動を行っている。ブラジルと関わりがある企業へアプローチ中だ。宮城さんは、自身の強みを「ポルトガル語と日本語の語学力に加え、両国で10年ずつ生活してきた文化の理解」だと話す。「これからも、家族の近くで暮らしていきたいから、やっぱり浜松の会社が良いですね」と話す。 「留学生は、外国語が堪能という目で見てもらえるのに、私たち定住者は”日本語の能力に不安はないか?”といった、ネガティブな印象で見られています」という宮城さんは、とにかく「面接官に会ってもらって、人となりを見てもらえるように、細心の注意を払っている」と話す。履歴書に「日系ブラジル人」と書いたことが理由で落とされないように、特技の欄にだけ「ポルトガル語」と書き、面接官に「どうしてポルトガル語が得意なの?」と問われた時にはじめて「実は、わたし日系ブラジル人で……」と話しをするのだという。 宮城さんへ、将来の帰国の可能性について聞くと「仕事で一時的にブラジルに滞在することはあっても、自分の拠点は、これからも日本だと思っている」と断言する。 自分は何人だと思う?という質問に変えると、彼女は少し考えながらこう話してくれた。「将来は日本人と結婚するかもしれないし、国籍上は日本のパスポートを取得するかもしれません。でも、わたしのルーツはブラジルにあることは変わりないし、ブラジルにルーツを持つ”ブラジル系日本人”としてこれからも日本で、浜松で暮らしていきたいです」
彼らは、工場労働を望んでいない
浜松駅の北側に広がる繁華街を抜け、銀行や役所の建ち並ぶオフィス街を眺めながら10分ほど歩くと、緩やかな波形の校舎が目を引く近代的な校舎が目に入った。浜松市街を一望できる屋上には芝生が敷き詰められ、気持ちの良い風が吹き抜ける。わたしは、公立静岡文化芸術大学のキャンパスにやって来た。 この大学で、日系ブラジル人に関する実地調査を行っているという、池上重弘教授の話を聞こうと私は思った。池上教授は、わたしが出会った、田中君や宮城さんの担当教授として、多文化共生のさまざまな取り組みにも関わっており、日系ブラジル人の若者の意識の変化について地道な研究を続けているからだ。 池上教授は、「リーマンショックと東日本大震災の2つの出来事により、日系ブラジル人の意識が大きく変化している」と指摘する。 そもそも日本にやってくる日系ブラジル人のバックグラウンドを知る必要があると池上氏は言う。「ブラジル人労働者の仕事といえば、工場の単純労働をイメージしませんか?」という池上氏からの問いに、わたしは、「日本語や技術がなくても、すぐに働けるから、外国人には適した仕事だと思います」と即答した。すると池上氏は、「彼らがもともと、そうした作業に向いているわけではないんですよ」と私の思い込みをあっさりと否定した。 「いわゆる工場での単純作業に、ブラジル滞在時から従事していた人は、約10%しか居ないんです。それが、日本に来ると初職で76%、長く滞在している人でも64%が、工場での単純労働で働くことになってしまうのです。もともとは、販売員、事務職、デザイナー、自営業、弁護士など、多様な職業についていた人たちが、日本側の労働需要に応じて、工場労働という均一な受け皿に集約されているに過ぎない。しそして彼らの7割近くが、不安定な間接雇用の条件下で長期間働いているというのが現状なのです」 08年のリーマンショックにより、雇用環境が一気に悪化し、多くの日系ブラジル人が職を失った。「デカセギ」が目的の日系ブラジル人たちは、稼げなくなった瞬間に日本で暮らす目的を失う。彼らの多くは、雇用環境が当分回復しないと分かると、帰国を選択したという。 では現在、残っている日系ブラジル人は、どういった目的を持っているのだろうか。 「厳しい環境の中でも雇用が継続された、いわゆる優秀な労働者と、多少我慢をしてでも日本での生活を継続させたいと望んだ世帯の人たちだ」と池上氏は説明する。