「私の取材が差別を生むのか」偏見の先に見えたデカセギ外国人2世の生き方
一方で、日本語の上達と共に、母語のポルトガル語を忘れていく不安も募った。「このままでは、どっちのことばも中途半端なまま大人になってしまうんじゃないか」という不安があった宮城さんは、中学卒業後にはブラジル人学校へ通うことを考えていた。ここでは、ブラジルの義務教育修了資格を得る事が出来る。いつか、もしも、ブラジルに帰国するのであれば、この資格は必要なものとなる。反面、日本の高校の資格は得られない。日本の最終学歴は中学校卒業となってしまい、就職の選択肢を狭めることは間違いない。 当時の中学の担任が、「それはもったいない。浜松市立高校にインターナショナルクラスが開設されて、ポルトガル語の授業も始まったから、ここを受験してみなさい」と進学を勧めた。「この時の担任のアドバイスがなければ、大学進学はなかったと思う」という宮城さんは、「日系ブラジル人の進学が少ないのは、日本語やお金の問題だけでは無い」と力を込める。親の世代が日本の教育に触れていないため、日本の高校から大学に進むという選択肢について、圧倒的に情報が無いのだと言う。 高校では、インターナショナルクラスに進学したおかげで、自分と同じように日本語の壁を乗り越えて進学してきた、日系ブラジル人や外国籍の仲間に数多く出会う。「苦しい思いをしてきたのは自分だけではない」と気づくと同時に、「自分たちの経験を生かして、なにか出来ることはなにだろうか」と考えるようになった宮城さんは、自然と大学進学を意識しはじめる。「課題は国語でした」という宮城さんは「自分は日本人と同じレベルで戦えるのか」という不安を抱きながらも、センター試験の会場に向かう。2012年の春、宮城さんは一般入試の枠から静岡文化芸術大学への進学を果たす。 大学に入った宮城さんは、自分たちと同じ境遇の子どもたちを助けたいという目標が明確になった。大学のゼミが中心となり行われた、日系ブラジル人家庭を支援するプロジェクトに参加する。小さな子供を持つ日系ブラジル人家庭に向けて、日本の小学生の生活や持ち物、習慣などを記したポルトガル語の絵本を配布した。その際、宮城さん自身も家庭を訪問し、自身の学校体験や受験の経験を伝えたという。 日系ブラジル人の若者が、日本語で苦労しながら大学にまで進学したという話しは、瞬く間に伝わり、「うちにも来てもらえないか」と連絡がることもあった。訪問先の家庭からは、「どうやったら、そんなに日本語を早く覚えられたの?」「日本の学校になじむ方法は?」「奨学金は、どこに申し込めば良いの?」「学校の制服は、どれぐらいお金が掛かったの?」などと、たくさんの質問を受けたという。なかには、深刻ないじめの相談を受けるようにもなった。