「私の取材が差別を生むのか」偏見の先に見えたデカセギ外国人2世の生き方
ブラジル人の居ないビーチ
浜松駅から南に15分ほど車を走らせると、太平洋を望む遠州灘海浜公園にたどり着く。駐車場に車を停め、小高い松の防風林を歩いて越えると、アカウミガメの産卵地としても知られている、中田島砂丘が現れる。南国のビーチを連想させる広大な白砂の海岸には、数年前までは夏になるとたくさんの日系ブラジル人が好んでやって来たという。 日系ブラジル人たちは、いまでも海岸で休日を過ごしているのだろうか。ビーチでバーベキューでもしている彼らに出会えるかもしれないと思い、期待を込めてやって来が彼らの姿を見つけることは出来なかった。代わって砂浜にいたのは黒いウエットスーツに身を包んだサーファーたちだった。 1990年の出入国管理法改正を皮切りに、日系4世まで日本の定住資格を得る事が出来るようになり、多くの日系ブラジル人が来日した。彼らの目的は「デカセギ」だ。以降、自動車関連や工業製品の製造現場には欠かせない存在として、浜松に根を下ろす。最盛期は2万人近くが定住していた浜松の日系ブラジル人も、2008年のリーマンショックを境に、工場の派遣労働が激減し、職を失ったブラジル人たちの帰国ラッシュが始まる。2015年7月の取材時には9000人を割り込んでいる。 かつては、130世帯の日系ブラジル人が暮らし、夏祭りではサンバが鳴り響いていたという中田島団地を歩いてみると、空き部屋が目についた。 団地を後にした私は、車を浜松駅に向けた。日系ブラジル人たちで賑わっていた頃の中田島団地で日本の生活をスタートさせたという、女性に会うことになっていたからだ。静岡文化芸術大学の4年生、宮城ユキミさん(20)。先に話を聞いた、田中カルビン琢問さんの先輩にあたり、彼の大学進学にもきっかけを与えた一人だ。
心に火を付けた、ひとこと
「9年前に来日したときは、カタカナとひらがなさえ分からなかったんですよ」と、話す宮城さんだが、現在のイントネーションにはよどみが無く、日本語に苦労したという面影は感じられない。10歳の誕生日を迎える頃に両親の「デカセギ」で来日した宮城さんは、すぐに公立の小学校に編入する。初日に髪のメッシュを入れたまま、ネイルやピアスを外さずに登校し、先生におこられてカルチャーショックを受けたという。「両親もブラジルの学校で教育を受けたので、日本の学校事情や常識は分からなかったんですよ」 国語と社会は「取り出し授業」と呼ばれる特別授業を、別室で受けた。他の授業はクラスメイトに混じって受けたが、黒板になにが書いてあるのかも分からず、日本語が話せないので友達も出来なかった。「とにかく、孤独でした」と振り返る彼女は、「日本語を話せない限り、ここではやっていけない」と思い知る。 そんな彼女が、日本語の猛勉強をはじめたきっかけは、同級生のこころない一言だった。算数のテストで、問題の日本語が分からず回答できなかったところ、「どうせ、ブラジル人だし出来ないでしょ」とからかわれたのだ。外国人を理由にバカにされた事に腹が立った。「日本語を覚えて、算数では負けないように見返してやりたい」と思った宮城さんは、先生に小学校1年生から5年生の漢字ドリルを借り、5年分の国語の学習を1年間でやり切ったという。 このときあきらめずに、奮起できた事が彼女のその後の人生を支えている。日本語を話せるようになったことで、世界が変わった。その陰には、2人の教師の存在がある。親身になって、国語を教えてくれた取り出し授業の先生と、わからないことばを黒板の隅っこにイラストで描いて説明してくれた担任の先生だ。「先生が、いつも自分のことを見てくれているって安心感があったんですよ。だから頑張れたんです」中学に入る頃には、日本語の読み書きも不自由が無くなった。