ネット社会・民意の参加者「個室の大衆」 安倍解散vs小池劇場に見るSNS政治
メディアの政治史
広い視野で整理しよう。 活字メデイアにおいて、書き手は「事実」の積み重ねによって文章を展開する。読み手もまたそこに表れる「論理」によって説得されたり反駁したりする。文章は印刷され、保存され、歴史の検証に耐えなければならない。 テレビ番組においては、視聴者は「人間」そのものを見ようとする。テレビには、たとえ演じられたものにせよ、活字の世界では見えなかった政治家の生身の人間像が現れるのだ。 ネットの世界においては、テレビで見えていた「人間」が、像としてはよく見えない。その分だけ、発信者の生の「感情」がテキストに露呈する。特にSNSにおいて、参加者は「感情」のぶつけ合いによる言語格闘技に勝利しようとする。 拡大していえば、人間は下記のような政治史を歩んできた。 1期・無文字政治:文字のない社会における原始的シャーマニズムの政治 2期・文字政治:文字によって体系化された法律と宗教(思想)による政治 3期・活字政治:活字ジャーナリズムによる「事実と論理」による、知識階級民主主義 4期・テレビ政治:テレビによって「人間」を見る、劇場的な、茶の間の大衆民主主義 5期・ネット政治:インターネット特にSNSによる「感情」がぶつかり合う、ゲーム的な、個室の大衆民主主義 もはや、バークや、『大衆の反逆』を書いたオルテガの時代とは、大きく変化しているのだ。
トゥルース・フェイク・ヴェイグ
トランプ大統領の就任以来「もう一つの真実」という言葉が蔓延した。 あらゆる手段を使って情報のラッシュを浴びせることにより、嘘と真実(事実)を不明にする政治手法がまかりとおり、「ポスト・トゥルース=真実以後」の時代という言葉さえ使われる。 一神教が支配してきた欧米の社会では、歴史が、絶対的真実の追求によって動かされてきた。進歩とは人類の知能が真理に近づくことであり、民主主義の原理も、真実が社会的に認知されることを原則(あくまで原則であるが)として成立する。そのために科学の専門家とジャーナリズムが重視されるのだ。すなわちその民主主義は「真実追求型」といっていい。だからこそ「真実以後」という言葉が、凄みをもって語られる。 しかし日本ではもともと、真実は相対的なもので、必ずしも絶対的に追求されるべきものとはとらえられていなかった。尊王攘夷運動が一挙に文明開化に転換しても、人々はそれほどおどろかなかった。現人神とされた天皇が普通の人間に転じても、それほどおどろかなかった。日本の政治は、真実を基本とするイデオロギー追求型ではなく、国民としての情緒的同一性にもとづいており、その民主主義も「情緒同一型」といっていい。 つまり、もともとトゥルースとフェイクの境界がヴェイグ(曖昧)なのだ。 アメリカのトランプ大統領と、CNNなどのテレビメディアは、トゥルース(真実)とフェイク(虚偽)の格闘を演じざるをえない。しかし日本の安倍首相は、核ミサイルを開発する北朝鮮や、尖閣に侵入しようとする中国や、従軍慰安婦の像を建てつづける韓国に対抗する意味での、日本人の情緒的同一性に支えられているのである。 そして先回、官邸は判断を誤った。忖度の存在、メモの存在、圧力の存在に対して、トランプと同じように、もう一つの真実を押しつけようとした。国民はその押しつけに反発したのだ。支持率の急落である。 しかしながら現在、真実はヴェイグなままに回復を見せる。 小池都知事は、初めからそのヴェイグに焦点を当てていた。豊洲問題、オリンピック施設問題など、センセーショナルに煽ることによって、真実が曖昧なままに改革者を演じつづける。とにかく現状を変えたいという閉塞感とリセット願望に火をつけようとする。 今回は、真実が曖昧なままに劇場化しゲーム化した選挙戦なのだ。
変節への審判
それにしても、憲法改正、安保法制という、国家の根本にかかわる政治信条をかなぐり捨てて、議席が欲しいだけの右往左往には驚かされる。まさにサバイバル・ゲームだ。議員の定数と、バブル時代に決めた政党交付金などを含めた報酬を削減すべきことを感じないわけにはいかない。 この選挙は、政策に対する審判であるとともに、変節に対する審判でもあり、政治家全体への審判でもある。 どちらが勝つにせよ、個室の大衆は甘くないはずだ。