ネット社会・民意の参加者「個室の大衆」 安倍解散vs小池劇場に見るSNS政治
個室の大衆・ホンネの民意
しかしその参加者は、広場に集まった民衆=デモでもなく、茶の間のテレビの前の大衆=マスでもなく、個室でひとりモニターに向かう、いわば「個衆」である。 テレビ時代の参加者は「茶の間の大衆」であり、受動的な存在であったが、ネット社会の参加者は「個室の大衆」であり、自ら発信する能動的な存在なのだ。それは、第三者によって方向づけられていないだけに、きわめて浮動的、流動的であるが、テレビの視聴者と比べれば参加の意志を有している。扇動(炎上)されやすいという点で広場の民衆に近いところもあるが、全体的な動きは、より多様化している。 テレビの出演者は、放送という公的な機関にあり、従来の、人類の進歩発展、国際協調、社会的公平、人道、人権、個人の尊重といった価値観を崩しにくく、「茶の間の大衆」はその「タテマエ的な民意」に引っ張られるのであるが、「個室の大衆」は、個人的な空間に居て、自らキーボードを叩くだけに、公的な価値観よりも自己の所属する集団の利益に敏感であり、その個室(密室)のキーボードから生まれる「ホンネの民意」が、いわゆる右寄りの、国家主義、民族主義(人種偏見)の流れを生んでいると思われる。 活字・テレビ・ネット、というコミュニケーション手段の変化は、民意の参加者を、知識階級・茶の間の大衆・個室の大衆、と変化させた。
電子リテラシーと政治のゲーム化
ネットの主役は、写真や音響や動画でもあるが、意外に「文字」である。 テレビによって活字メディアから映像メディアへの変化が論じられたが、インターネットによって再び文字情報の重要性が高まっている。しかしネット上の文字表現は、テキストと呼ばれ、活字の文章とはリテラシーが異なる。 学者や評論家が自分の意見をホームページに掲載する場合は別として、ブログ、フェイスブック、ツイッターといったSNSにおいては、ほとんどが「短文」で、これは「単語」と「文章」のあいだという感覚である。発信、受信、送信、返信、保存、複写、削除などの速度は、紙媒体と比べてほぼ瞬間的だ。 つまりネットのリテラシーは、電車の中でスマホを扱うように、常に急いでいる状態であり、じっくりした論理の展開より、激しい「感情」のぶつけ合い、場合によっては暴力的な言語の応酬となる。特にツイッターは、匿名が多く、表情も分からず、スキンシップがない分だけ応酬が激しく、肉体に代わって言葉がぶつかる格闘技となっている。 ネットもまた劇場的ではあるが、普通の意味の劇場ではなく、客席と舞台が別れてはいない、いってみれば、寺山修司の天井桟敷や唐十郎の状況劇場のような、筋書きのないハプニング重視の参加型劇場である。 その意味で、SNS時代の政治は「劇場化」というより、「ゲーム化」しているというべきだろう。もちろん将棋や囲碁やチェスといった、脳の奥を使うゲームではなく、眼と手と脳の表面がショート・サーキットしたようなコンピューター・ゲームである。 個室のキーボードから生まれる政治現象は、茶の間の劇場におけるよりもさらに過激に、流動的なものとなる。