京都在住の花房観音さんと一緒にたどる、京の旧跡が伝える9つの人間ドラマ。
とんちで有名な“一休さん”ですが、その実像はちょっと違っていたようです。若くから世を儚んで仏門に入ると、僧侶たちの欺瞞を暴くように、堂々と遊郭に出入りをし、男とも交わりました。晩年は、30代の盲目の女、森女(しんじょ)とこの酬恩庵に棲み、彼女とのまぐわいを赤裸々に歌う『狂雲集(きょううんしゅう)』という漢詩集を残しました。
ちなみに、一休禅師は後小松天皇の子どもともいわれています。欲望にまっすぐ。その生き方に、私は強い人間味と共感を感じます。
こちらの蓮の花は本当に見事です。待賢門院(たいけんもんいん)は白河天皇に可愛がられ、その子を孫の鳥羽天皇の子として産みました。生まれた子どもは後の崇徳上皇。が、鳥羽天皇は息子(崇徳上皇)を“叔父子”として疎み、後に保元の乱と呼ばれる内部抗争に敗れた崇徳上皇はついに、讃岐に流されてしまいます。崇徳上皇(崇徳上皇)の哀れな生涯に母の待賢門院は何を思ったでしょう? 彼女の眠るこの法金剛院で、極楽浄土のように咲き乱れる蓮を見るたびにそのことを考えてしまいます。
檀林皇后(だんりんこうごう)は嵯峨天皇の皇后で絶世の美女だったそうです。姿を見かけた僧侶は心惑わされて修行も手につかなくなるくらいに。そんな檀林皇后は、死んだら自分の死体を辻に捨て、朽ちていく様を人に見せつけよと言い残しました。
その様子を描いたのが九相図(くそうず)で、西福寺で限定公開されています(複製)。鳥、獣につつかれ最後は髑髏(どくろ)に化身する画は実におどろおどろしい。けれども彼女は、美貌など儚いもの、という思いを後世に伝えたかったのではないでしょうか。
世を儚んで比叡山に入った親鸞は、その後、山を下りて六角堂100日参籠(さんろう)を行います。その95日目に経を唱えていると、救世観音が現れ「行者が、これまでの因縁によって、たとい女犯(にょぼん)があっても、私(観音)が玉女(ぎょくにょ)の身となって肉体の交わりを受けよう」と告げました。