名著「失敗の本質」にみる、学校教育の根深い問題 抽象的で状況を並べただけのあいまいな戦略
抽象的で「空文虚字の作文」、プランBもない
これに関連する指摘が『失敗の本質』にもある。 日本軍のエリートには、概念の創造とその操作ができた者はほとんどいなかった。個々の戦闘における「戦機まさに熟せり」、「決死任務を遂行し、聖旨に添うべし」、「天祐神助」、「神明の加護」、「能否を超越し国運を賭して断行すべし」などの抽象的かつ空文虚字の作文には、それらの言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。 出所:『失敗の本質』pp. 287-288 自戒を込めて申し上げるが、学校や教育の話で言えば「働き方改革」、「DX」、「個別最適な学び」、「教師の資質・能力の向上」、「校長のリーダーシップ」などと抽象的に述べるだけで、具体に落とし込めていない組織、人は少なくない。お化粧を落とせば、「先生方、頑張ってくださいね」と言っているだけの施策や文書もかなり多いのではないだろうか。 日本軍が事実あるいは論理をもとにして戦略、戦術を十分に考えられていなかったことは、既定のプランでうまくいかないときの備えにも表れている。 インパールで日本軍と戦ったスリム英第十四軍司令官は、「日本軍の欠陥は、作戦計画がかりに誤っていた場合に、これをただちに立て直す心構えがまったくなかったことである」と指摘したといわれる。 日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織のなかに論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がある。(中略)戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできなかった。ノモンハン、ガダルカナル、インパールの作戦はその典型的な例であった。 出所:『失敗の本質』p. 289 この箇所を私は、例えば、最近の大学入試改革の混乱にも似たことが言えるかもしれない、という思いで読んだ。記述式を増やしてセンター試験を大きく変革するぞというプランAの威勢は当初はよかったのかもしれない。 だが、改革の必要性はどこまであったのか。確かな事実認識に立脚したものだったのか。また、改革案のマイナス面や副作用、リスクをどこまで考えたか。そして、思い描いていたプランAが立ち行かないときの代替案、プランBはどこまで真剣に検討されていたのか。 最近の教員採用試験をめぐる動向にも、似た不安を抱く。採用試験の前倒しという手段がいつの間にか目的化されてはいないか。併願も可能な中、各自治体がバラバラに採用試験を実施する状況は変わっておらず、内定辞退が続出する自治体も出てきている。 議会などで追及されるため教育委員会、また文科省としても、何らかの対策を打っているとポーズは取りたいわけだし、一度始めたことを検証したり、やめるべきか再検討したりしようとはしない。 以上は『失敗の本質』から読み解ける教訓をこんにちの教育行政や学校教育の実情に「意訳」したことの一部で、ほかにもさまざまな気づきがある。夏休みはあとわずかだが、子どもに課す以前に、教育に関わる大人の課題図書として、いかがだろうか。 (注記のない写真:Graphs / PIXTA)
執筆:教育研究家 妹尾昌俊・東洋経済education × ICT編集部