え? 王様と家を交換!? 家ガチャが凄すぎる貴族とは? とある侯爵家の波乱万丈の歴史
イギリス貴族の格付けで最上位の公爵家より、爵位では一段下の侯爵で、また財力の面でもかなり劣るが、政治的な格式の面では一歩も引けを取らない名家が存在する。それがソールズベリ侯爵家(Marquess of Salisbury)である。 エリザベス1世の秘書長官としてその地位を確固たるものにし、英国王室と二人三脚の歩みを辿った一族は、なんと最終的に王家と自宅を交換することになる。英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。
エリザベス1世の女王秘書長官として
元々の家名はセシル(Cecil)。その開祖ともいうべき存在が、テューダー王朝半ばから政治の中枢に位置し続けたウィリアム(1520~1598)だった。彼の祖父はウェールズとの辺境地域に土地を持つ小地主にすぎなかったが、ウェールズを基盤とするヘンリ7世が国王となり、その守衛官に就いたことで、セシル家の運命は変わった。こののちセシル家はテューダー王朝とともに興隆の一途をたどっていく。 まずは開祖ウィリアムである。1558年にエリザベス1世が即位するや、彼は女王が最も信頼を置く重臣として、女王秘書長官に任命される。女王が送受信する書簡のすべてを取り仕切るとともに、外交をも一手に担っていった。1571年、彼はついにバーリ男爵(Baron Burghley)として貴族に叙せられ、翌72年に大蔵卿に転じた。 2度の結婚を通じ、彼には2人の息子がいたが、出来の悪い長男(のちにエクセタ伯爵となる)とは異なり、弟のロバート(1563~1612)は政治的才能に溢れる人物だった。父バーリ卿の推挙もあり、1591年に女王はロバートを枢密顧問官に任命する。現在でいえば閣僚に相当するが、28歳のこの青年はこれ以前に大臣職に就いたことはなかった。まさに大抜擢である。 とはいえ、ロバートは女王と初対面だったわけではない。父が一族の拠点を構えた、ロンドン郊外北部のハートフォードシャの屋敷にエリザベス女王は足繁く通っていた。少年時代からロバートは女王とは顔なじみだったのである。1596年にはかつて父が就いていた女王秘書長官になり、世間は「セシル王国」が建国されたなどと陰口をたたいた。 しかしこの2人のセシルのおかげで、エリザベスの45年近くにわたる治世は比較的平穏に保たれた。