え? 王様と家を交換!? 家ガチャが凄すぎる貴族とは? とある侯爵家の波乱万丈の歴史
伯爵位とハットフィールド・ハウスの獲得
ロバートの次なる難題は「ポスト・エリザベス」のゆくえである。生涯結婚をせず、国に人生を捧げた女王の後継者としてロバートが早くから近づいていたのが、王家と遠戚のスコットランド国王ジェームズ6世だった。1603年に女王が亡くなると、すぐさまロバートはジェームズと連絡を取り、ここにイングランド王ジェームズ1世の誕生となった。いままでいがみ合うことの多かった両国は、1人の王をかすがいに「同君連合(personal Union)」を形成することになった。 こうした功績もあり、ロバートは1605年にソールズベリ伯爵に叙せられた。ジェームズ6世とロバートには、こんな逸話も残っている。 狩猟好きだった国王は、たびたびハートフォードシャにある伯爵家の屋敷を訪れていた。屋敷の近辺は狩猟に最適の環境だったのだ。屋敷を気に入った王たっての願いで、伯爵は屋敷を交換することに応じた。かつてヘンリ8世がカトリックの枢機卿から没収したハットフィールド・ハウス(Hatfield House)という、伯爵の屋敷からも近い邸宅が新たな伯爵家の拠点となった。それは今日(こんにち)でもソールズベリ侯爵家の邸宅であり、シンボルにもなっている。 1608年には大蔵卿まで兼ね、ステュアート王朝初期のイングランド政治の全権を掌握した初代伯爵が亡くなると、2代伯爵には息子のウィリアム(1591~1668)がついた。彼には父のような政治的野心も才能もなかったが、多くの芸術家や造園家を集め、ハットフィールド・ハウスの外見も内装もより洗練されたものへと変えていく。しかし、その2代伯爵も時代の波にあらがうことはできなかった。
革命に翻弄されたソールズベリ一族
1642年に清教徒(ピューリタン)革命(~1649年)が勃発すると、ソールズベリ伯爵家は議会派に与することとなる。国王の首が切り落とされ、共和政が始まるや、2代伯は国務会議のメンバーに推挙される。しかし途中からオリヴァ・クロムウェルの独裁が始まり、伯爵も政治の中枢からは排除された。やがて王政復古(1660年)となったが、今度は王弟ヨーク公爵(のちの王ジェームズ2世)がカトリック教徒であるにもかかわらず、イングランド国教会の体制下で王位を継承する是非をめぐり、議会内は侃々諤々(かんかんがくがく)の論争に発展した。 2代伯のあとを継いだロバートの曾孫のジェームズ(1646~1683)は、カトリック王の登場に反対だった。1679年のある日のこと。ヨーク公が巡遊の帰りにハットフィールドに立ち寄る可能性がでてきた。3代伯爵は突然、家人に何の準備もさせずに外出してしまった。邸宅に着いたヨーク公一行は唖然としながらも、近隣の村にまで食料や蝋燭を調達しに出向かざるを得なくなった。怒ったヨーク公は邸宅に一泊したあと、出がけに伯爵の寝台の上に8シリングを「宿代」として置いていったとの逸話も残っている。 しかし3代伯は幸運だった。彼はヨーク公がジェームズ2世として王位に即く前にこの世を去ることができた。ところがなんの因果であろうか。あとを継いだ息子ジェームズ(1666~1694)は、こともあろうにローマでカトリックに改宗してしまった。名誉革命(1688~89年)では国王側についた4代伯爵は、革命後にたびたびロンドン塔に収監された。