ブランド物を欲しがる人と「推し活する人」の共通点 囚われの身になってしまう、偶像崇拝者たち
それは、使用価値が買われているということだ。目的をはたすためにろくに使えないように見えるものは買われない。 ■ブランドという名にだまされる ところが20世紀半ばになると、その使用価値をまったく無視した商品が買われるようになった、と指摘したのがフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(1970)だった。この使用価値を無視した商品の代表はいわゆるブランド物だ。 バーキンというハンドバッグには自動車1台分の価格を超えるものがあるが、こまごまとした小物しか入らないから、その使用価値は100円ショップで売られている袋と同じでしかない。
では、何が買われているのか。それは、バーキンを持って歩くのはリッチな人間だとかセンスがよいのだといった意味が買われているのだ。 ということは、他人に対するアピールを買っているのであり、アピールは意味を持った言葉だから、言葉を買っているということになる。ボードリヤールはこれを「記号(言葉)の消費」だと表現した。 もちろん、言葉を買ってみたところで自分がリッチになるわけではない。見かけのほんの一部分だけセレブ風になるだけだ。それは他人の目ばかりではなく、自分の目にもそう映っている。そして内心は絶望感を味わっている。
では彼らは、本当は何を手に入れたがっているのだろうか。アイドルの関連グッズを買う人の場合も、布きれや紙きれや電磁化されたプラスティックの板が欲しかったわけではないだろう。人は、本当は何が欲しいのか。 ■自分が欲しがっているものがわからない ブランド物を欲しがる人、アイドルグッズを欲しがる人、多くの給与や多くの時給というお金を欲しがる人はみな同じだ。欲しがるものをいつまでも手にできないからだ。その前に、自分が切実に欲しがるものが何かわかっていない。
ブランド物を欲しがる人は、究極のところ、身の周りをすべてブランド物で満たしてもなおリッチでいられるような身分になりたいのだろうか。だとしたら、それは現在の自分の否定だから、ブランド物を買い続けるほど自己はますます否定され、その否定が多いほどみじめさが増すばかりとなるだろう。 アイドルグッズを買い続ける人は本当のところはそのアイドルを自分のものにしたいのだろうか。たとえば、アイドルと結婚したいのだろうか。しかし、結婚したとたん、そのアイドルはかつてのアイドルのような状態ではなくなるだろう。なぜならば、ファンとの間に距離を置いた舞台に立っているからこそ、アイドルと呼ばれる特別な存在でいられるからだ。