パレスティナ問題に考える歴史的ルサンチマン(中) 空想的社会主義、科学的社会主義に続くのは地球的社会主義?
イスラム過激派に特攻のDNA
1972年、日本赤軍のメンバーがイスラエルのロッド空港において自動小銃を乱射し多数の死傷者を出すという事件が起きた。 僕(当時大学院に在籍)は、このニュースを英国のブライトンという街で知って、つきあいのある日本人の若者を集めて対策を練った。しばらくはむやみに出歩かない、外に出るときは必ず二人以上にする、できるだけ身ぎれいにして長髪は切ったほうがいい、というようなことだ。今考えると滑稽かもしれないが、当時は真剣だった。 イギリスの新聞は、一面トップで「ジャパニーズ・レッドアーミー、カミカゼ・テロリズム」と報じたのを覚えている。日本赤軍という戦後左翼の過激派と太平洋戦争末期の特攻とが結びついたのだ。以後、イスラム原理主義の運動が過激化し、自爆テロが頻発するようになる。この事件が影響しているという論調もあるが、僕もある程度はそれがあると思う。 いわば日本赤軍をつうじて特攻のDNAがイスラム原理主義に移植されたのである。現代的都市化を象徴するイスラエルに対するアラブの敵愾心と、やはり現代的都市化を象徴する日本の高度成長に対する敵愾心によって成立した日本赤軍の論理が結びついた。歴史的にいえば、英米を中心とする都市化のメインストリームに対する積年のルサンチマンを核として、アジアの西の宗教原理主義と、アジアの東の国体思想・革命思想における過激(自滅戦術)主義が結びついた。
社会主義に代わる新しい物語
ベルリンの壁が崩れてから、資本主義 vs 社会主義の構図は崩れ、資本主義的都市化へのルサンチマンは、政治体制の闘争にではなく、むしろ文化的、地政学的闘争に向かう。ベルリンの壁崩壊に「歴史の終わり」という表現も現れたが、現実にはむしろ歴史が逆行する様相を見せている。「ルサンチマンのヨリシロ(依代)」としての社会主義思想が崩れて民族と宗教が復活したのだ。ここでのヨリシロとは、精神的エネルギーが凝固する核としての「文化的紐帯」を意味する。 では、社会主義は死んだのだろうか。 近代への過程で宗教的認識は科学的認識に置き換えられ「神は死んだ」とニーチェはいった。しかしどうだろう。イスラム原理主義も、その他の宗教原理主義も、過激な活動を続けているし、人々の穏健な宗教心も健在である。神はそう簡単に死にはしない。同じように、ベルリンの壁が崩壊して社会主義が死んだように見えても、そう簡単に死にはしないだろう。というより、およそ社会を改善しようとする思想は社会主義的色合いを帯びる傾向があり、それ自体は悪いことではない。 最近、トマ・ピケティは主として格差拡大の立場から、斎藤幸平は主として地球沸騰(温暖化)の立場から、もう一度マルクスと「社会主義」を見直そうとしている。資本主義の世において、社会主義的論理は、くりかえし現れるのではないか。近年のそれは地球環境の問題がベースにあって、空想的社会主義、科学的社会主義に続く「地球的社会主義」と呼ぶべきものかもしれない。 とはいえ僕らの世代は、これまでの社会主義運動や、社会主義国への失望のトラウマが強く、おいそれとは社会主義を称揚できない。 いずれにしろ温暖化ガスによる異常気象は喫緊の問題となりつつあり、それが人類の思想史に新たな地平を拓くのはたしかなことだろう。僕は文化論者として、その問題が、新しい資本主義でも、新しい社会主義でも、あるいはまた一神教でも、多神教でもなく、人類に、まったく「新しい物語」を要求しているように感じられる。 次回は、これまでに論じた「歴史的ルサンチマン」を日本の近代史に投影してみたい。