宮城・南三陸町長が記者会見(全文1・冒頭スピーチ)復興の状況など
5年前を振り返って
ちょっと5年前のお話をさせていただきますが、3.11、午後2時46分に地震がありまして、午後3時26分に第1波の津波がうちの町に来ました。当初、気象庁の発表で津波の高さ約6メートルということだったんですが、結果としてうちの町、一番高いところでは24メートルという津波になりました。われわれも防災対策庁舎で町民皆さん方に避難誘導をしておりました。で、防災庁舎の屋上は12メートルございます。6メートルという津波の警報でしたんで、屋上にいればという思いがあったんですが、結果としてあそこの場所、はるか3メートルも、4メートルも超える大津波に遭いまして、あそこの場所で残念ながら職員のみんな、それから消防の方々、そして警察の方々、43名の方々が残念ながら犠牲になってしまいました。その場所が結果として震災以降ということで、さまざまな議論を呼びました。この4年あまり、解体あるいは保存という声が町民の間でもいろいろ交錯してまいりました。結果としてつい昨年になりますが宮城県のほうで、町ということではなくて県としてこれを保有するという結論に結果として至って、原爆ドームが20年かかって決定したということも受けて、宮城県とすれば1つの決定を下すのにそれぐらいの時間は必要なんだろうということで、20年間は宮城県が県有化をすると、保有をすると。そのあとで、あとは南三陸町の町民の皆さんが、正確に言えばこれから15年後になりますが、その時点で南三陸町の町民の皆さんに決めていただければそれでいいだろうということになりました。 三陸地方は基本的に、過去からずっと津波災害の歴史にさいなまれてきた場所であります。うちの町でもこの100年間あまりで4回の大きな津波に遭いました。あの防災対策庁舎が将来の子どもたちにとって、どういう位置付けになるのかということをこれから15年間、町民の皆さんにしっかり考えていただきたいなというふうに思います。