中国で頻発する無差別殺傷事件:「原子化」された社会の「政治的うつ病」
「原子化」された社会
さらに、「政治的うつ病」は「原子化」された社会でより深刻化する。 財政状態が劣悪で、雇用関係が不安定な中、日雇い派遣業、ネットカフェ、消費者金融といった「貧困ビジネス」が利益を上げる日本社会が抱える問題を、この「原子化」という言葉を用いて描写する内田樹は、「個人が原子化された社会」において、例外的に強くも幸運でもない人々は、ひとたび集団を離れて原子化すると、生涯を収奪され続けるように構造化されていると説明する。 収奪する側にいる「強者」たちは、「収奪される人たち」が安定的に供給されるように、「原子化されると楽しいですよ」ということを、まめにアナウンスする。集団を作って乏しい資源を分かち合い、危険を回避することに配慮する人々が増えると、「強者」たちにとっては「食い物」が減るからだ。 中国では、グローバル経済の中で高度に発達したサプライチェーンを極限まで効率化させてきた。そうした経済システムにおいて、急激な景気の悪化で真っ先にコストカットの対象となるのは、末端レベルの労働現場である。そして、「社会主義市場経済」という中国のコンテクストで、「原子化」の状況はより過酷になる。 なぜなら、中国の人々は幼少時より、「中国は社会主義革命のために労働者階級と農民による《労農同盟》によって建国された国」だと学び、中国の官製メディアは中国の指導者が労働者や農民に配慮した政策を推進していると宣伝し続けているからだ。無錫の事件の容疑者が述べているように、現在の中国では、国の主人公であるはずの労働者が搾取される状態が常態化しており、中国共産党によるプロパガンダと現実とのギャップは拡大する一方だ。 中国の人々は「原子化」を望んでいるのか。文化大革命や天安門事件の時代とは異なり、権威主義的な政治体制の下でも、ソーシャルメディアでつながる中国の人々は、自己表現の機会を増やしてきた。しかし、開放的な空間だと思われたソーシャルメディアのスペースは、時として検閲や密告の場に変わる。突如として壁が現れ、情報が遮断されたり、消されたりする。 人々がより自由に自らの悩みを表現し、苦悩を他者と分かち合うことができれば、課題解決のために人と人がつながっていくことができれば、社会の緊張状態は一定程度、緩和されるはずだ。だが、景気が回復しない中で、政府が言論統制の手綱を緩めれば、人々の不満が広範にわたることが明らかになる。それが怖いというのが独裁国家の悲しい性(さが)だ。しかし、人間は自らの感情や思考を持つのだから、表現の自由が奪われれば人間の心を失うしかない。管理や監視では、温かい人間の心を回復することはできない。 政治的権利が奪われ続けてきた中国の人々が抑うつ状態の下で追い詰められ、監視システムや警察が迅速には対応できないような方法で、車やナイフを使った犯罪に走っている。国家安全法や反テロリズム法を制定して「国家の安全」を守ろうとしている中国において、国民のテロリスト化とも言える状況を加速してしまっているのは、なんとも皮肉なことである。