中国で頻発する無差別殺傷事件:「原子化」された社会の「政治的うつ病」
政治的うつ病
近年中国語の言論空間で、「政治抑郁(政治的うつ病)」(zhèngzhì yìyù)という言葉が聞かれるようになった。日本ではほとんどなじみのない言葉だが、中国では、2016年に華東師範大学政治学部の講師だった江緒林が自死した後、中国の知識人が抱える苦悩との関わりで、「政治的うつ病」の言葉を使った追悼文やコメントが見られたという。 ある中国の心理学の研究者によると、香港の逃亡犯条例改正案の反対運動が行われていた2019年、「政治的うつ病」に関する文章が中国大陸で投稿され、香港でも広く閲覧された。さらに、コロナ禍のロックダウンによって生活に多大な制限が加えられ、「ゼロコロナ」政策に対する不満が高まる中で、この文章はさまざまなサイトで引用されたという。 その後、元中央テレビ局の人気キャスターで、現在欧州をベースにドキュメンタリーの制作やyoutubeの番組を放送している柴静や、中国では発禁となる情報を集めて発信しているX(twitter)のアカウント「李老師不是你老師」が紹介し、中国語の空間で「政治的うつ病」が広く知られるようになっていった。 「政治的うつ病」(political depression)は、欧米諸国で社会や政治の機能不全、自らの人生の選択においてコントロールを失った感覚から生じる状態と説明されている。アメリカの心理学者などがこの言葉を提起したのは、2001年の9.11事件(アメリカ同時多発テロ事件)に関連してのことだったという。 その後、2016年にドナルド・トランプが米国の大統領に選出された後、特にリベラル派の間で「政治的うつ病」の現象が議論され、さらに、他の文脈でもこの表現が使われるようになり、世界中のリベラルな運動におけるシニシズム(冷笑主義)や燃え尽き感を表すようになった(China Media Project 2022)。
インターネット時代の構造的暴力
急速な経済成長を達成した中国は、貧富の差を拡大させたとはいえ、社会全体において生活水準を底上げすることに成功した。ほとんどの人が携帯電話を使い、インターネットにアクセスし、生活の利便性や効率が格段に高まるのを身をもって経験した。そうして、人々は自らの時間や生活スタイルを思うようにコントロールできるようになったが、その一方で、国家が一方的に科す政策目標や家庭からの圧力を受け、さらに、社会における過酷な競争にさらされる中で息苦しさも感じている。 特にゼロコロナ政策のロックダウンでは、中国のすべての社会階層の人々が、自らの運命を自らコントロールできず、個人の尊厳が踏みにじられた。簡単には忘却できないこの集団的記憶が人々の脳裏に焼き付けられただけではなく、コロナ後の中国は「監視社会」のシステムをより強固なものとし、全方位にわたって国民の思想や行動を制限するようになった。 中国の人々が貧困、労働搾取、不公正な司法、言論の自由の制限、入試や就職での差別等によって、物理的かつ心理的に大きな圧力を感じ続け、危機的な状況に陥っているのであれば、それは、ノルウェーの平和研究者ヨハン・ガルトゥングのいう「構造的暴力」にさらされているからであろう。 しかし、個々の問題の行為主体は不明確であり、さらにインターネット時代の中国では、監視カメラが至るところに設置され、「不安定分子」としてマークされている人々には尾行がつけられ、少人数でも当局がマークする人物がいれば食事のために集まるだけでも警察が飛んでくる。 日常会話の中で、政策上の問題を議論することさえ、気軽にはできないのだ。10年にわたり中国社会科学院の経済研究所の副所長を務めてきた朱恒鵬は現在行方不明だが、私的なチャットグループで、習近平国家主席の経済政策を批判していたと報じられている。構造的暴力を前に、なす術がなく、自分の感情や思考を極度に抑え込まなければならない。そうした中で、「政治的うつ病」の症状が深刻化するケースが少なくないのではないか。