「馬力が人並み外れとった」外野手コンバートの4カ月後にジュニア球宴で2発MVP 井上一樹の背中を押した男
◇渋谷真コラム・龍の背に乗って 井上一樹物語「3」島谷金二編 井上の運命が大きく動いたのは1994年3月9日。春季キャンプを投手として過ごしたが、教育リーグで野手としての出場を命じられた。外野手コンバートの発案者は、当時2軍監督だった島谷金二である。 「球は速かったけど、コントロールがバラバラでなあ。辛抱しようとは思ったけど、どちらかというと悪くなってた。でもあの体であの力。打者にすれば成功する確率が高い。そう思って、コーチに聞いてみたんよ」 この人が何も言い出さなければ、数年後には井上の野球人生にピリオドが打たれていたかもしれない。投手としては失格。だが、思い付きやダメ元ではなかった。 「技術はもちろんない。でも体幹が強くて、馬力が人並み外れとった。2、3年かけてでも、技術さえ覚えればドラフト1位クラスの打者になれる。契約金1億じゃって、笑いながら言うとったもんよ」 自信はあったが、独断ではなく2軍の全コーチに意見を聞いた。「あの時、誰か一人でも反対しとったらあの話はなくなってた」。全会一致。5年目の春から井上は外野手になった。 わずか4カ月後の7月のジュニア球宴(札幌円山)で、2本塁打を含む3安打、4打点の活躍。MVPを獲得したが、そもそも出場する予定はなかった。故障者の代替選手として5日前に滑り込んだのだ。偶然かつ必然。この年の全ウエスタン・リーグを率いたのは、前年覇者の中日監督。つまりここでも島谷がきっかけを与えていた。 「札幌のホームランはよお覚えとるよ。辞退者が出て、タイミングが良かったんやね。まあ、器が大きかったから楽しみではあった」 この年は初めて1軍で13安打(投手時代に1本)を記録した。運命のコンバート。飛躍への一歩目となったMVP。その後ろにはいつも島谷という指導者がいた。 「井上にはスタミナがあった。人のいいところを見て、それを盗んで取り込んでいく。工夫して、努力したから使ったんよ。ワシが育てるんじゃない。選手が育つんよ。育つ子にたまたま出会っただけ」
誰の背中をいつ、どんな強さで押すのか見極めるのが指導者の仕事。島谷に押された井上の背中を、さらにつんのめるほどの強さで押す人がいた。コンバート翌年の冬のことだった。=敬称略
中日スポーツ