「なぜ“100年に1人の天才”がわざわざ無名校に?」全国高校駅伝26年前の奇跡…「1日60km走ったことも」駅伝弱小県の新興校が“超名門”になるまで
なぜ1期生たちは誰も「辞めなかった」?
一方で、結果が約束されていない状況でそれだけの辛い練習を続けることは、決して楽なことではないように見える。だが、1期生は意外にも誰一人欠けることなく3年目まで残っていたという。松崎が振り返る。 「ひとつは寮があったのは大きかったですね。当時は駅伝部専用ではなくて、遠方から通ってくる普通の生徒用の寮にみんなで入っていて。私生活まで懸けてやっているのに、ここまで来て途中で辞めるという選択肢はみんな頭に浮かばなかったんだと思います」 もちろん、一度入部した部活を辞めることにネガティブな印象が強かった当時の時代性も背景にはあったという。 「練習にしてもいまのように性能のいいシューズがあって、もともとスピード抜群の選手が集まっているわけでもない。その意味で、結果的に量を重視するスタイルがちょうどハマっていた。記録が伸びればやっている方もやっぱりできちゃうものなんですよ」 そして迎えた3年目の県駅伝。松崎はレース前の両角監督の言葉をいまでも覚えているという。 「『私を都大路に連れて行ってください』と、嘆願されて頭を下げられて。それで自分たちが『行きたい』というよりも何とか両角先生を『行かせてあげたい』と思ったんですよね」 この時、5000mで14分台の記録を持つランナーを7人揃えていた佐久長聖は、実は当時では全国的にも稀有なレベルに達していた。普通に走ればまず負けない選手層になっていたことに加えて、超高校級である“ジョーカー”佐藤清治も擁していたわけで、客観的に見れば圧倒的優位の下馬評ではあった。 それでも松崎たちの中では、不安の方が大きかったという。 「やっぱりこれまで“勝ったことがない”というのは大きくて。必要以上に相手を大きく見てしまう部分もあって、『負けるんじゃないか……』という不安はどこまでいってもつきなかったです」 そしてそれは監督の両角にとっても同じだった。それはこの時の区間配置にも表れている。 通常、駅伝は先手必勝が定石である。セオリー通りに考えれば中距離で圧倒的な力を持つ佐藤を擁しているのならば、エース格の松崎か宮入を最長区間の1区10kmに置き、2区3kmに佐藤を置いて突き放すのが常道だった。 だがこの時、両角監督はあえて佐藤をアンカーの7区に置いている。 「僕たちへのプレッシャーを和らげるのが目的だったんだと思います。清治がアンカーにいれば、誰かが多少ブレーキを起こしたとしても、前が見える位置で繋ぎさえすればいい。そういう余裕があることで、前の区間のランナーはのびのび走ることができるので」(松崎)
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