「なぜ“100年に1人の天才”がわざわざ無名校に?」全国高校駅伝26年前の奇跡…「1日60km走ったことも」駅伝弱小県の新興校が“超名門”になるまで
元「卓球部」と「スキー部」が…インターハイ出場
前述のように宮入と小嶋は中学時代は卓球部とスキー部で、決して入部当初からエース格だったわけではない。入部直後から全国レベルだった佐藤のケースとは異なり、そんな選手の躍進は同期たちにとっても大きな意味を持った。 他にも新入生には現在駅伝部で監督を務めるバスケ部上がりの高見澤勝など、ポテンシャルの高いランナーも多かった。結果的にそんな強力な下級生の加入もあり、秋の長野県高校駅伝では創部2年目にして、2位まで上り詰めた。松崎が振り返る。 「ただこの年は正直、勝てる可能性もあったレースでした」 敗因は、3区を走った松崎のブレーキだった。 調子が良かったために、直前までアンカー予定だったものが長距離区間に変更となったことで、気負ったことが影響したという。 「タイムやトラックレースの実力的には十分、全国に行けても良かった。それだけに、悔しさだけが残りました。同時に、自分のミスが原因だったこともあって、『来年こそは絶対に都大路に行くんだ』という気持ちが固まりました」 最終学年となった1期生の中で、松崎はキャプテンになった。 勧誘期間を含めれば、両角監督体制になってはや4年目。「5年で都大路」という学校側との約束に向けては、もはや尻に火が付きはじめていた。 「ここまでくるとみんな基準が“全国”というレベルになって来ていました。夏はインターハイに行くこと。そうして秋はとにかく都大路に行く。駅伝で、県で1番になることだけを考えていましたね」 これまで以上に徹底して「量」を走った。今のように体幹トレーニングや科学的な練習法が確立されている時代ではない。完全オフの休日は作らず、ひたすら毎日走り続けた。毎月の走行距離は優に600kmを越え、夏合宿では1日の走行距離が60kmを超える日もあったという。 「現監督の高見澤も『当時は練習量だけなら今の倍近かったと思う』と言っていましたから、時代もあったとはいえよく走ったなぁと思います」(松崎) 小嶋と松崎の2人が「あまりのキツさに記憶に残っている」と声をそろえたのが、車山のスキー場を利用したクロカンコースで行う15kmほどのペース走だった。 「今でも覚えていますけど、アップダウンがものすごいので、最後は本当に比喩じゃなく足が全く動かなくなるんです。最後はもう、歩くような感じで。でも、そこまで追い込んでやっていましたね」(小嶋)
【関連記事】
- 【つづき/#3を読む】「さすが怪物ですね」テレビ解説も驚愕…無名の新興校“100年に1人の逸材”が見せた伝説の区間新…26年前、全国高校駅伝“奇跡の初出場4位”ウラ話
- 【貴重写真】「こ、これが100年に1人の逸材の走り…」黎明期の佐久長聖に現れた“伝説のランナー”佐藤清治184cmの超ダイナミックフォーム…26年前、初代・佐久長聖チームの都大路での激走も見る
- 【最初/#1を読む】「そんなの無理でしょ」全国高校駅伝26年前の奇跡…部員は「卓球部やスキー部の素人ばかり」なぜ無名校の“寄せ集め集団”が「全国4位」になれた?
- 【あわせて読む】テレビ解説も思わず「ちょっと脆いですね」…全国高校駅伝20年前の《大波乱の内幕》初出場から“6年連続入賞”駅伝「超名門」佐久長聖高“失敗の本質”
- 【こちらも読む】「高校時代のことはもう捨てています」5000m“異次元の高校記録”保持者の苦悩…伊勢路には姿ナシ「元スーパー高校生」順大・吉岡大翔(20歳)の現在地