国境の島・対馬の「らしい風景」追い求めた「石垣先生」 画家津江篤郎の世界
【辺境の島に生きる 対馬の画家】
国境の島・対馬は石の島でもある。旧対馬藩の城下町だった島南部の長崎県対馬市厳原町宮谷地区。S字状に続く武家屋敷通りの各所には、黒や茶の大小さまざまな石が2メートルほどの高さに積まれた石垣が連なっていた。この対馬を象徴する石垣を好んで絵のモチーフとした画家がいた。津江篤郎(つのえとくろう)(1915~2003)。対馬の近代洋画家の第一人者であり、晩年は「石垣先生」とも呼ばれた。 【写真】津江篤郎さん 対馬博物館(同市)で開催中の特別展に、津江の油彩画「島の漁港」(1995年)がある。背後に山を望み、石垣のある港の水面に船が浮かぶ構図。赤茶色の「インディアンレッド」で描かれ、凹凸のあるマチエールは画面をスクレーパーナイフで繰り返し削って生み出された。港の防波堤や護岸に石垣は少なくなったが、津江の絵を見た地元の人たちは「対馬らしい風景」だと口をそろえる。 津江は厳原生まれ。3歳の頃、対馬藩に仕えた親戚筋の関野益友の画室に通い始めた。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大)の図案科に進学。福岡の三井工業学校(現三池工業高)の教諭となるも兵役中に結核を患って退職した。対馬に戻ったのは48年。デザインの仕事を求めたが、終戦間もない時期には難しかった。病状が回復してからは幼稚園などで絵を教えながら創作し、二科展に入選するなど存在感を現した。 初期は「海辺」や「密航者」と題した少女の人物画が多く見られ、背景には石垣のモチーフがあった。だんだんと人物を離れ、石垣や港の絵に変化していき、半具象、半抽象画へと移行した。画風は変われど、生涯を通じて対馬を題材に描き続けた。 ◆ ◆ 「石垣はものを言わないが時代を感じさせる。雨にぬれると表情も変わり、人間味がある」。津江の教え子で元美術教師の高瀬満(81)=長崎県諫早市=はそう話す。 割れやすく採取しやすい対馬の石は、古くから島の生活に溶け込んでいた。 江戸時代、区画整理や朝鮮通信使の来島に合わせた景観づくりのために石が積まれた。公益財団法人「文化財建造物保存技術協会」の報告書(98年)によると、城下町には人々が集住し、家が隣接して連なっていた。一度出火すると瞬く間に大火になるため、火事のたびに「火切石垣」(防火壁)がつくられてきた。厳原の中心部から15キロほど離れた島西岸の椎根地区には、食料や生活用品を保管する「石屋根倉庫」が立ち並ぶ。朝鮮半島からは強風が吹く。火災による焼失を抑えるため、民家からやや離れた場所に建てられている。 津江は石垣への並々ならぬ思いを書き残している。 <現代に於て、この石垣のもつ抽象的構成美を越える芸術作品を創作できるであろうか><私は長い間このモチーフに取り組んできたが、到底太刀打ち出来る相手ではないような気がする>(「対馬の自然と文化」第23集) ◆ ◆ 津江は対馬に戻ってすぐ仲間たちと対馬美術協会を立ち上げた。対馬博物館の学芸員、小栗栖まり子は、津江が島に戻ったことで対馬の洋画史の幕が開けたとみる。林武、山口長男ら中央画壇とのつながりも持った。東京や京都の美術展に足を運んで研さんを積み、53年に二科展に初入選後、77年まで連続入選した。 津江は対馬で描くことについて次のように語っている。 <文化は各人の修養です。各が日ごろから研さんを積めば全体のレベルも向上し離島のハンディも克服できるのではないでしょうか>(西日本新聞、1990年10月24日) 創作はストイックだった。妻の光子(故人)は長崎新聞の取材で、その様子を振り返っている。<絵の具の使い方がよくない><もう少し頑張れば人並みに描けるのに>。こんな言葉を漏らしながら、一度描いた油絵を絵の具ごと削り取ったこともあったという。また、仲間たちの修養、研さんにも助力した。長く交流のあった対馬美術協会元会長の御手洗哲(76)は、仲間たちから作品批評を求められ、助言する津江の姿を覚えている。 夕暮れ時、厳原港に行ってみた。船の浮かぶ港全体が赤茶色に染まる。津江の代名詞とも言える「インディアンレッド」が思い浮かんだ。津江も自宅2階のアトリエに差し込むこの夕日を毎日のように眺めた。 <遠くに輝く美を求めて、対馬の自然から教わりながら、もがき狂う旅人でなければならぬ>(津江篤郎画集) こんな言葉を書き残した津江は、病と付き合いながら宿命のように対馬の地にとどまって足元を見つめ、表現の極致を追い求めて絵画の世界を旅した。 =敬称略 (丸田みずほ) ~ ~ 中央画壇から遠く離れた対馬に力強く根を張って描き続けた画家がいた。対馬博物館の特別展に合わせ、近代洋画家3人の作品と生涯をたどり、その魅力に迫る。 ▼特別展「対馬に生きた画家たち」は30日まで。一般・大学生500円、高校生以下無料。木曜休館。