引き返せなかった太平洋戦争への道…満州事変で覚えた「うまみ」、生活よくなり戦争は「善」になった
[戦後80年 昭和百年]開戦<上>
来年は戦後80年、昭和の始まりから100年目となる。いまだ戦火の絶えない世界の中で、1941年12月の開戦を三つの視点から考える。日本が戦争へと向かい、引き返せなかったのはなぜか。まず、当時の時代状況、周辺地域の情勢について、駒沢大教授の加藤聖文さん(57)(日本近現代史)に話を聞いた。 【写真】真珠湾攻撃に向かう空母加賀と瑞鶴。空母赤城から日本海軍が撮影
組織利益を優先させた陸海軍
日本、イタリアとの三国同盟を結ぶ際、ドイツが日本に期待していたのは、アメリカと戦争になった場合、日本が自動的に参戦することでした。しかし、日本側はこれを拒否します。同盟締結の1940年9月の時点で日本はむしろ、アメリカとの戦争を慎重に避けようとしていたのです。
陸軍は国民政府の蒋介石を屈服させ、日中戦争を終わらせることに懸命でした。そこで同年9月、仏印(フランス領インドシナ)に進駐し、英米などによる国民政府支援の物資輸送路・援蒋ルートの遮断を試みたのですが、仏印北部で止まっていた軍を翌年7月、南部へ前進させると、情勢が悪化します。アメリカが石油などの対日全面禁輸を断行してきたのです。
戦争の終結どころか、海軍が深刻な影響を受けることになりました。動かない軍艦は鉄の塊です。日本の石油のストックは、平時で2年分、戦時で1年半分と言われていました。そこで、産油地帯の蘭印(オランダ領インドネシア)を占領するしかなくなります。
海軍は強硬になっていきます。41年11月の連絡会議で、東条英機内閣の賀屋興宣大蔵大臣から「いつ戦争したら勝てるか」と尋ねられた海軍の永野修身軍令部総長は、「今」と強い語調で返答しています。「戦機はあとには来ぬ」と。
かつて海軍は、陸軍が31年9月に満州事変を起こすと、翌年1月には海軍陸戦隊が上海で中国軍と衝突。37年7月に陸軍が盧溝橋事件で戦うと、海軍も翌月から再び上海で武力衝突を始め、航空隊による爆撃も行いました。陸軍と同じく組織利益の拡大が第一でした。
こんな調子では、開戦回避の外交努力にも限界があります。日米交渉が41年4月から行われますが、日本の動きに不信感を募らせた米側は、7か月後、中国とインドシナからの撤兵などを求めるハル・ノートを突きつけることになります。